検察の標的捜査は現在も進行中
『ハンギョレ21』[2009.06.12第764号]
[表紙物語]盧武鉉前大統領の葬儀直後、ユン・ウォンチョル前青瓦台行政官を拘束…
「イ・チョルサン・ゲート」を一網打尽にできず、広範囲な口座追跡
▣チェ・ソンジン
6月1日、大田地検特捜部が参与政府(盧武鉉政権)時代に青瓦台に勤務していたユン・ウォンチョル前行政官を拘束した。盧武鉉前大統領の告別式の直後だった。2007年9月、チャンシン繊維のカン・グムウォン会長から8000万ウォンを受け取り、それをアン・ヒジョン民主党最高委員に渡した容疑だ。ユン前行政官は、国会議員の補佐官として在職していた2005年頃にも知人から学校施設の改善などに関する請託と共に、数度にわたって1億ウォン前後を受け取った容疑もある。それぞれ政治資金法違反と斡旋収賄容疑だった。
令状を発布した裁判所は、斡旋収賄容疑に注目した。「斡旋収賄の回数が複数あり、証拠隠滅および逃走の恐れがある」というのが令状を出した裁判所の説明だった。ユン前行政官側も、「検察はアン・ヒジョン最高委員がカン・グムウォン会長からお金を借りた部分(政治資金法違反容疑)を問題視しているが、この部分だけでは令状が棄却される可能性が高い」と語った。
»保釈されたカン・グムウォン会長(左)が5月26日、ボンハ村にある盧武鉉前大統領の安置所を訪れ、アン・ヒジョン民主党最高委員に挨拶をしている。写真共同取材団
アン・ヒジョン、カン・グムウォンを狙い、始まった捜査
ユン・ウォンチョル前行政官の名前がメディアに本格的に知られたのは、2009年2月16日だった。大田地検特捜部はそのとき、いわゆる「イ・チョルサン・ゲート」の捜査にしがみついていた。イ・チョルサン・ゲートは携帯電話の製造会社、VKのイ・チョルサン前代表が国庫補助金の流用などの方法で秘密資金をつくった後、これをアン・ヒジョン最高委員など、旧与党の386政治家たちに政治資金として渡したという疑惑から出発した。疑惑が集中的に量産されている場所は、検察の周辺だった。そして言論報道はこうだった。
「検察はイ氏がつくったVK秘密資金がマネーロンダリングを経て政界周辺の某関係者の借名口座に流入し、この口座にカン会長の資金も流れている事実を確認した。さらに検察は、この口座に入金された金がアン・ヒジョン氏が2004年に大統領選挙資金事件の裁判で宣告された追徴金4億9000万ウォンを出すのに使われた事実を明らかにした」(『朝鮮日報』2009年2月16日付)
「政界周辺の某関係者」とは、ユン・ウォンチョル前行政官のことだ。彼の名前が「イ・サンチョル・ゲート」で挙げられるようになった主な理由は、彼が2000年代初頭にイ・チョルサン前代表がつくったある企業に3年間勤務したためだった。その後、彼は参与政府発足と共に青瓦台政策調整秘書官室に勤務し、アン・ヒジョン最高委員の側近として活動した。
検察は、ユン前行政官の経歴を基に「イ・チョルサン(カン・グムウォン)-ユン・ウォンチョル-アン・ヒジョンなど」につながる現金授受疑惑を絶えず流した。この過程で『朝鮮日報』などは「検察は、VKの高速成長の過程でイ・チョルサン前代表が参与政府の関係者に政治資金を提供した可能性があると見ている」といった報道を量産した。しかし情報通信業界によると、VKは参与政府発足以前から急成長しており、逆に参与政府中盤の2006年には不渡を出したこともある。「参与政府関係者」の核心であるアン・ヒジョン最高委員をゲートに入れ込むため、検察周辺で事実関係とはかけ離れた話まで流してきたようなものだった。
その後、「イ・チョルサン・ゲート」はどうなったのか?まず「イ・チョルサン-ユン・ウォンチョル-アン・ヒジョンなど」につながる現金授受疑惑は、一編の小説であることが判明した。疑惑の出発点だったイ・チョルサン前代表は、4月25日に保釈となった。現在、法的な攻防が行われている主な内容は、政治資金とは関係のない、イ前代表個人の横領および背任容疑に対する部分だ。
イ前代表の弁論を務めるソン・チャジュン弁護士は、裁判の過程で「国庫補助金の流用という容疑で捜査が始まったが、市民運動出身の企業家という理由で、前政権の政治家たちに対する政治資金流入に関して執拗に捜査を受けた」とし、「市民運動出身の企業家という理由のため、なんの容疑点も見つけられない検察が、『叩けばホコリが出でくるだろう』というやり方で捜査をした」と検察を皮肉った。
法廷では政治資金の代わりに横領・背任の攻防のみ
「イ・チョルサン・ゲート」の核心部分は検察が描いた「想像図」であることが明らかになったが、ひどい目に遭う側は依然として参与政府関係者だった。それはユン・ウォンチョル前行政官の口座のせいだった。検察は当初、イ・チョルサン前代表の国庫補助金流用の詳細を突き止めるために、口座追跡方式で彼の資金使用先を洗い出した。この過程で当然ながら、2000年代初頭に彼と共に働いていたユン前行政官の口座が発見された。この口座を説明するには、2004年の大統領選挙資金捜査の記憶をたどる必要がある。
»民主党が6月4日、「李明博政権の政治報復真相調査特別委員会」を発足させ、政治報復事例に関する真相把握に立ち上がった。6月5日午後、イム・チェジン検察総長が退任式を終えた後、庁舎から出ている。写真『ハンギョレ21』ユン・ウンシク記者
アン・ヒジョン最高委員は当事、大統領選挙資金裁判の結果、4億9000万ウォンの追徴金を宣告された。アン最高委員にとっては、支払う術がないほどの巨額だった。アン最高委員の周辺ではこの事実を知り、資金を少しずつ出し合った。お金が集まった口座が彼の側近だったユン・ウォンチョル行政官の口座だった。アン最高委員と親しかったカン・グムウォン会長が一番多い1億ウォンを出した。ペク・ウォンウ、ソ・ガプウォン、イ・グァンジェ議員もそれぞれ3000万ウォンずつ出したと伝えられた。少ない額では10万ウォンを出した人もいた。
検察はこの事実を基に、4月末にユン前行政官に対する拘束令状を請求した。カン会長が出した1億ウォンを政治資金と規定し、アン最高委員まで捜査するというのが検察の計画だった。「イ・チョルサン・ゲート」の捜査がアン最高委員の政治資金捜査にまで広がったのだ。だがアン最高委員とカン会長を狙うために、まずユン前行政官を拘束しようとした検察の試みは、水泡に帰した。大田地方裁判所のシム・ギュホン令状専任担当部長判事が4月25日、「まだ容疑が具体的に明らかでない他の犯罪捜査を行うために令状を発布することはできない」と検察の行動にブレーキをかけたのだ。
だが検察も引き下がらなかった。6月1日、ユン前行政官の個人斡旋収賄容疑を補完した拘束令状を手に入れたのだ。結局、ユン前行政官が拘束されたことにより、検察は彼を媒介に行われたカン・グムウォン会長とアン・ヒジョン最高委員の政治資金法違反容疑について捜査の手綱を手に入れた。
ユン・ウォンチョル前行政官の事例を長々と紹介した理由は、この事件が「ホコリ叩き的捜査」、「標的捜査」、「過剰捜査」論争を起こした検察の行動を、赤裸々に示す象徴的事件だからだ。特にユン前行政官が拘束された時点は、盧武鉉前大統領の告別式が終わってからわずか3日後だった。盧前大統領の逝去を契機に起こった、検察の捜査方法に対する強い批判にも、検察はまったく耳を傾けていない。
まず「標的捜査」の部分だ。大検察庁は2008年12月、捜査全般に対するガイドラインを載せた『検察捜査実務典範』を発刊した。これを見ると、最初の捜査対象で派生した別個の事件を捜査することは適法だと規定したが、犯罪ではない特定人物を処罰する目的で行う捜査は禁止すると明示した。しかし、検察はイ・チョルサン前VK代表に対する捜査の初期から「イ・チョルサン-ユン・ウォンチョル-アン・ヒジョン」、そして「カン・グムウォン-ユン・ウォンチョル-アン・ヒジョン」などに至る「概念図」を先に描いておき、捜査の焦点をアン・ヒジョン最高委員とカン・グムウォン会長に合わせたという疑惑が提起された。「アン最高委員を必ず召還する」という噂も、大田地検で公然と流れた。アン最高委員の側近であるユン前行政官に対しても、政治資金伝達部分に対する容疑の立証が曖昧で、結局は斡旋収賄容疑によって拘束した検察の態度も後々噂となった。
特定人物への処罰目的の捜査を禁止しておきながら
「ホコリ叩き的捜査」、「過剰捜査」の敢行も、問題だと指摘される。やはり大検察庁の『検察捜査実務典範』には、ある意図を持ってまだ明らかになっていない他の証拠資料を無差別に確保しようとすれば、過剰捜査として評価するとある。カン・グムウォン会長がユン前行政官の口座に入れた1億ウォンの性格に、検察が注目したのは当然のことだ。逆に言えば、検察は1億ウォンの性格のみを究明すればいいという意味でもある。検察はそうしなかった。ここで何歩か踏み出し、包括的に令状を発布された後、カン会長の会計帳簿はもちろん、夫人の口座や家計簿まで見入ったと伝えられている。カン会長が所有していたシグナス・ゴルフ場も押収捜索された。カン会長側は当事、「すでに何度も捜査して、もう調べる内容もないのに、(カン会長の)車に保管していた薬まで持っていった」と話した。特に検察は、カン会長が脳腫瘍の治療を理由に保釈申請をしたときも、最後まで反対した。
検察がユン前行政官に金を渡した人物について無差別に口座追跡を実施したことも、説明されなければならない部分だ。イ・ファヨン前民主党議員も、被害者の一人だ。イ前議員は4月頃、農協から口座追跡の事実を知らされた。農協は「イ・チョルサン・ゲート」を捜査した大田地検特捜部が2008年10月頃、イ前議員の口座情報を調べたと彼に伝えた。イ前議員は6月2日、『ハンギョレ21』とのインタビューで、「私もやはりアン最高委員の追徴金を支援するために、200万ウォンを出したことがあるが、検察がこれを口実に私の口座を調べたと聞いている」、「参与政府関係者のなかには、このように不必要な口座追跡をされた人が多いが、このように口座を調べた後、実際に本事件とは関係なく当事者がよく言った店まで一々調査したと把握している」と話した。
これに関連して、民主党は6月4日、「李明博政権の政治報復真相調査特別委員会」(真相特委)を結成し、本格的な攻勢に出る態勢だ。真相特委は検察の政治報復に関連する真相究明と、国税庁による政治報復的税務調査疑惑の究明、盧前大統領と側近に対する政治報復的捜査の有無を把握する計画だ。イ・ファヨン前議員などに対する無分別な口座追跡事例も、すべて調査の対象に含まれると伝えられた。
真相特委はすでに盧武鉉前大統領の逝去に関して、大検察庁の捜査関係者を被疑事実好評容疑でソウル南部地検に告発した。告発対象はイ・インギュ中央捜査部長、ホン・マンピョ捜査企画官、ウ・ビョンウ中央捜査1課長だ。民主党は告発状で「イ中央捜査部長などは、盧前大統領の捜査を進めながら客観的な証拠や事実を基に捜査結果をブリーフィングするレベルではなく、捜査の進行状況をブリーフィングし、贈賄という客観的な証拠や状況のない個人的な贈物についてもマスコミに流した」と明らかにした。真相特委はこれと共に検察改革のための3大課題として、△公職腐敗捜査署(公捜署)の設置、△中央捜査部(中捜部)の廃止、△被疑事実公表罪制度の改善などを提示した。
民主党、「政治報復真相特委」発足活動に出る
パク・グンヨン参与連帯私法監視センターチーム長は、「それぞれの第一線の地検特捜部で十分にできる特別捜査機能を、今のように大検察庁中央捜査部が担当する限り、検察捜査に対する政治的論争は避けることができない」とし、「どうしても高位公職者に対する専任捜査機構が必要ならば、大検察庁中央捜査部をなくす代わりに、参与政府のときに設置しようとして失敗した高位公職者不正捜査署などで代替するべきだ」と語った。
チェ・ソンジン記者
日本の政権交替と外交政策/李鍾元
麻生政権の運命が秒読みに入ったようだ。自民党政権が終わりを告げ、戦後日本の政治史上初の選挙による政権交代が実現する可能性も一層高まった。日本社会の大衆的世論を反映する民間テレビ番組で、現職首相の自民党政権に対するこのような失望感と不信感が露骨に表現されたことは記憶にあまりない。政権の末期症状だといえる現象が、至る所で見受けられる。
麻生首相としては、今週が自分の主導で大逆転攻勢をかける最後の機会でもあった。不利な状況にある
5日の静岡県知事選挙、12日の東京都議会選挙で相次いで敗北した場合、自民党内で首相の辞任と交代論が噴出する可能性が高いためだ。このような動きを抑制し、自分の指導力を確保するために、人気芸能人出身の政治家を含んだ改編と自民党指導部の交代を断行した後、国会解散と総選挙に突入するという計画だったようだ。しかし、元々大衆的人気を基盤に浮上した麻生首相は、自民党重鎮の抵抗を統制する政治力が脆弱で、人事権さえ思い通りに行使できない軟弱な総理総裁の実情のみをあらわにしたまま挫折してしまった。
「外交の麻生」を自負する麻生首相としては、自分の指導力を演出するための舞台装置もそれなりに準備してきたようだ。6月28日には今年に入って2回目の日韓首脳間のシャトル外交が東京で開かれ、続いて30日に北朝鮮の核の脅威と日米同盟強化を全面に打ち立てて、民主党の軟弱な姿勢を批判する外交演説を行った。7月8日からはイタリアで主要8カ国(G8)首脳会談が開催される。日韓首脳会談も、麻生政権の選挙戦略の一環として活用された。だが急いで設定された会談だったため、具体的で実質的な成果も特に見られなかった。
最近、保守右派の見解を代弁する新聞や雑誌に、民主党の外交政策を批判する記事が急激に増えはじめた。民主党の執権可能性がそれほど高くなったという証拠であり、民主党の外交政策が現在とは違う方向に展開されるかもしれないという危機感の反映だと言える。
民主党は、自民党出身の保守派と旧社会党系列の革新勢力、市民運動出身グループ、旧日本新党出身の新保守派グループなど、理念的・政治的にとても多様な構成の集合体だ。特に外交安保政策では、極と極が共存する状況であり、日本人拉致問題や対北制裁に関しては自民党よりも強硬な議員も少なくない。
しかし注目されるのは、鳩山代表、岡田幹事長、小沢選挙担当代表代行など、自民党出身の保守的政治家が、現在の日本外交を「対米一辺倒」と批判しながら、対アジア関係強化、非核平和外交などを軸にした新しい外交政策を模索しているという点だ。最近、民主党の政策文書や公約集には「対等な日米同盟体制」、東アジア共同体、東北アジア非核地帯構想などといった脱冷戦型の地域外交構想が野心的に提唱されており、日韓の懸案である過去の清算や、在日韓国人の地方参政権問題についても典型的な姿勢が際立っている。もちろん、このような外交政策は旧社会党時代から続いたものではあるが、これに局限せず、日本自らの国益に立脚した新しい外交目標で位置づけられた結果だと言える。選挙公約が具体的な政策に実現するまでは、多くの過程と難関が存在する。しかし、戦後初の選挙を通じた政権交代が、日本外交の戦略的転換の契機になる可能性が十分にある。朝鮮半島と東北アジア情勢に与える影響という観点からも、もっと積極的な関心と対応が必要だ。
李鍾元/立教大教授・国際政治
ハンナラの政治辞書を見ても「報復らしい」
『ハンギョレ21』[2009.06.26第766号]
[特集1]2001年の法案で「政派が違うという理由で捜査などの不利益を与える行為は政治報復」
▣イ・テヒ
「前回、盧武鉉前大統領の弔問放送の際には、国家元首を誹謗する内容まで生放送された。言論を弾圧する国で、そんなことが可能なのか」イ・ドングァン青瓦台スポークスマンが6月19日、青瓦台の春秋館で会った記者に言った言葉だ。この発言は韓国放送の「放送事故」のことを指していた。5月29日、盧前大統領の遺体を納めた棺が火葬場に入る直前、韓国放送のカメラの横にいたある弔問客がこのように叫んだ。「李明博の×××、復讐してやる!」
»2001年1月、李会昌ハンナラ党総裁(当事)が「私の辞書に政治報復という言葉はない」と、政治報復禁止法を制定すると表明した。写真=ハンギョレ/イ・ジョングン記者
復讐。報復。韓国の政治史を灰色に染めてきた単語だ。民主党は盧前大統領の逝去を契機に、政治報復禁止を法制化すると明らかにした。
政治報復禁止を制度化しようという提案は、今回初めて出てきたものではない。15代大統領選挙の金大中候補と李会昌(イ・フェチャン)候補の乾坤一擲を目前にしていた1997年8月、15代国会では政治報復禁止法案が発議された。発議者はイ・ゴンゲ自由民主連合(自民連)議員。大検察庁の公安部長やソウル地検長、ソウル高等検察長を経た人物だっただけに、その彼が出した政治報復禁止法は一層注目を浴びた。この法案には「政治的理念、所属政党および団体などの違いや、特定政党や団体に対する支持・反対などを理由に、不当に不利益を与える行為」を政治報復と定義した。この法案によると、李明博政権になってから盧武鉉前大統領とその周辺の親盧的勢力に起こったことは、明らかに政治報復と見なされる。
金大中・李会昌候補も報復禁止を提案
この法案では、政治報復をこのように分けて提示した。△公判請求前に被疑事実を公表し、情報・内偵・捜査に入った段階で、大統領、国務総理、大統領秘書室または国務総理秘書室から圧力がかかった捜査、△不正腐敗全般に対する情報把握や腐敗構造全般に対する十分な審査・分析を経た制度改善などの措置がとられていない状況で、政権交代後1年以内に政治家、政権交代以前の次官級以上の公務員を対象とした捜査公権力の動員。
1番目の定義によると、盧武鉉前大統領とその周辺に対して広範囲かつ執拗に行われた被疑事実の公表は政治報復だ。2番目の定義からすると、パク・ヨンチャ前会長本人や、彼が所有していた泰光実業に対して行われた税務調査を起点にした国税庁と検察による調査や捜査もやはり同じことだ。
しかし、イ・ゴンゲ元議員が提案した政治報復禁止法案は、不正腐敗をえぐり出すための事情や、政治報復の基準が曖昧だという理由で廃棄された。金大中候補(当事)は、このアイデアを受け入れ、1997年12月に「政治報復防止と差別待遇禁止などに関する法律」を提案した。核心は「政治報復を目的に、個人や政党、団体の政治活動を禁止したり、財産権を剥奪する遡及立法をしてはならない」という内容だった。しかしこの提案は、法案となるには至らなかった。
政治報復禁止法の提案は、2001年にまた復活した。提案者は大統領選挙への挑戦が2回目の李会昌ハンナラ党総裁(当事)だった。彼は2001年1月30日、「私の辞書には政治報復という言葉はない。政治報復禁止法をつくり、この国で続いている政治報復の根をつまなければならない」と主張した。当事のハンナラ党が準備した草案では、「所属を異にする政派という理由で捜査、税務調査、口座追跡などの政治的目的の不利益を与える行為」を政治報復と規定していた。しかし、ハンナラ党は政治報復に関する明確な法的定義を確定できず、党内の論争ばかりを繰り返して2002年に法案制定を放棄した。
イ・テヒ記者
標的捜査、伝家の宝刀「取引の技術」
『ハンギョレ21』[2009.06.26第766号]
[特集1]「イ・ガンチョル、キム・ジェユンなどの捜査時に、免責の代価として関係者に虚偽陳述誘導疑惑」
民主党、国政調査の標的に
▣チェ・ソンジン
盧武鉉前大統領の逝去以降、政治報復や標的捜査に関する論争が収まる気配がない。李明博政権の下で、参与政府(盧武鉉政権)関係者に対する広範囲な内密調査や、「ホコリ叩き的な」検察の捜査が頻発したという疑惑だ。もちろん政治報復論争の核心は、盧前大統領に対する検察の捜査だ。パク・ヨンチャ泰光実業会長の税務調査ロビー疑惑究明に始まった検察の捜査は、盧前大統領の金品授受疑惑ばかりバタバタと叩いた。一方で現与党の税務調査もみ消し疑惑は手を出すこともできなかった。
»盧武鉉前大統領の逝去以降、政治報復論争が絶えることがない。盧前大統領の捜査など、参与政府関係者に対する捜査を進めてきた検察が論争の中心にいる。イ・インギュ大検察中央捜査部長が6月12日午後、ソウル瑞草洞の大検察記者室で「パク・ヨンチャ・ゲート」の捜査結果を発表している。写真=ハンギョレ/キム・ミョンジン記者
民主党は6月4日、「李明博政権の政治報復真相調査特別委員会」(真相特委)を結成し、李明博政権発足以降に行われた検察の政治報復に関する真相把握に立ち上がった。盧前大統領の側近に対する政治報復的捜査も調査の対象だ。真相特委が注目する事件は、イ・ガンチョル前青瓦台市民社会主席やキム・ジェユン議員、アン・ヒジョン最高委員などに対する検察の捜査だ。すべて政治報復的な標的捜査として国政調査が必要だというのが真相特委の主張だ。ここではその内容を整理した。
イ・ガンチョル青瓦台市民社会主席
参与政府関係者は、イ・ガンチョル前青瓦台市民社会主席に対する検察捜査を政治報復の代表事例としてあげている。イ前主席は、2004年の国会議員選挙と2005年の補欠選挙に出馬し、企業関係者などから不法政治資金を受け取った容疑(政治資金法違反)で3月13日に拘束された。大検察庁中央捜査部は、イ前主席が自分の政治資金を管理したノ某氏を通じて、合計3億1000万ウォン(約2360万円)の不法政治資金を受け取ったと見ている。事業家チョ某氏から2億1000万ウォン、チョ・ヨンジュKTF前社長から5000万ウォン、そしてキム・デジュン前斗山重工業社長とチョン・デグン前農協中央会会長からもそれぞれ2000万ウォンと1000万ウォンを受け取ったということだ。
イ前主席は、キム前社長とチョン前会長から3000万ウォンを受け取ったという事実は認めた。他の部分は法廷で真実を明らかにすることとしている。事業家チョ氏とチョKTF前社長から、直接金を受け取ったことはないというのが彼の主張だ。
イ前主席側は、検察の捜査過程を問題視している。実際に李明博政府発足以降、検察周辺ではイ前主席に対する各種の不正疑惑がしきりに提起された。しかし大部分は事実ではなかったり、根拠が曖昧なことが明らかになった。文字通り「~説」レベルの話に過ぎなかった。イ前主席は、今回の事件もこれらとあまり変わらないものと見ている。
例えばチョ・ヨンジュKTF前社長がイ前主席に渡したという5000万ウォンも、2008年の納品不正疑惑事件が明らかになったときにイ前主席を差し込んだようだった。イ前主席の側近、ノ某氏がこの金を選挙資金として受け取った事実が明らかになったが、イ前主席が直接受け取ったり、指示した事実は立証されなかった。
イ前主席の周辺の状況は、2009年2月から「異常に」狂ってきた。事件の関係者たちが、検察でイ前主席に不利な陳述を続々としはじめたのだ。イ前主席と親しい間柄として知られているチョ・ヨンジュKTF前社長は2月26日、ノ氏に金を渡した席にイ前主席の夫人、ファン某氏がいたと陳述を変えた。2008年に「ノ氏とだけ別個に会った」という自分の陳述と正面から衝突する内容だ。チョ前社長から選挙資金を受け取った席にファン氏がいたのなら、イ前主席は政治資金法関連の処罰を逃れることは難しくなる。
チョ前社長よりももっと極端な変身をした人物は、事業家のチョ某氏だ。参与政府時代から最近まで、政界の内外にコネを取り付けてきたチョ氏は、イ前主席の側近を自任してきた。イ前主席が検察に拘束される過程で、決定的な役割を果たした人物もやはりチョ氏だ。彼は検察で2004年4月の総選挙と2005年10月の大邱補欠選挙の際に、ノ氏を通じてイ前主席に1億5000万ウォンの選挙資金を渡したと陳述した。
»民主党の「李明博政権の政治報復真相調査特委」は、盧武鉉前大統領に対する過剰捜査疑惑や、参与政府および前政権関係者に対する政治報復的な標的捜査の疑惑があると主張している。左からイ・ガンチョル前青瓦台市民社会主席とキム・ヒョンミ前議員、キム・ジェユン議員、イ・ヒジョン最高委員。写真(左から)写真共同取材団、ハンギョレ/キム・テヒョン、カン・ジェフン、『ハンギョレ21』リュ・ウジョン記者
「盆暮れの付け届け」の金額を誇張してメディアに流す
民主党の真相特委とイ前主席が、検察の捜査を「標的捜査」、あるいは「政治報復」だと主張する理由はここにある。検察が参与政府の実情に通じたイ前主席を組み込むために、関係者の虚偽陳述を引き出したという疑惑があるということだ。イ前主席の弁護をしているイ・ジェファ弁護士は、「検察は捜査過程で事業家チョ氏の斡旋収賄容疑を捕捉したが、これに対して起訴はおろか立件さえしなかった」とし、「チョ氏が自分の斡旋収賄容疑や政治資金提供容疑を見逃す代価として、検察の望むとおりの陳述をしたという疑惑がある」と語った。イ弁護士は、検察の捜査過程で陳述を覆したチョ・ヨンジュ前社長も検察から追加起訴や追加捜査などの圧力を受けた可能性が高いと見ている。
検察はイ前主席を拘束し、彼が政治資金を不法に受け取っただけでなく、盆暮れの付け届けや運転手の月給まで後援者に代納させたと主張した。この部分についてイ前主席側は、事実関係を認めながらも検察が「言論プレイ」をしたと反発している。まず事業家のチョ氏が検察で陳述したという「盆暮れの付け届け」200個の場合、検察はこれを6000万ウォン(約460万円)相当だと主張した。しかしイ前主席側は、チョ氏が直接運営する食肉処理場で牛2頭を処理して配ったもので、検察が金額を水増しするためにこれをデパートの国産牛ギフトセットの価格で計算し、メディアに流したと不満をあらわにした。
やはり検察が2000万ウォン(約150万円)と計算し、容疑内容に盛り込んだ運転手の月給代納部分についても、イ前主席側では手口が汚いという反応だ。イ前主席の側近は、「青瓦台市民社会主席を辞めた後、車もない彼のために後援者たちが少しずつ金を出し合って車両維持費を集めたものなのに、検察はイ前主席が後援者に「厚かましい要求」をした恥知らずな行為として扱った」と主張した。
民主党の真相特委でも、イ前主席に対する検察の「標的捜査」と「ホコリ叩き的捜査」の問題を指摘している。真相特委は、検察が捜査過程でイ前主席の家族や知人、企業家など100人を上回る人々に対して無差別に口座追跡や電話陳述の要求、検察召還をしたと見ている。真相特委関係者は、「検察はイ前主席の弱点を突きとめるために、彼の夫人が運営していたソウル江南にある刺身店の顧客まで無差別に洗い出した。カードで100万ウォン(約7万7000円)以上決済した人や、小切手で食事代を払った人に対して、検察の捜査官が一人一人連絡し、刺身店を訪れた理由やイ前主席との関係などを問い詰めたと聞いている」と述べた。
陳述拒否権について知らせずに受けた陳述の証拠能力は低い
イ前主席を拘束する直前、検察関係者が「今回はイ・ガンチョル前主席がまともに引っかかった」と言った。イ前主席の拘束で当事の検察が見せた自信は、一定部分の説明になった。しかし、法廷でも検察の主張が通じるかは未知数だ。
検察はイ前主席に対する捜査過程で、事業家のチョ氏とチョ・ヨンジュ前社長の陳述によって決定的に立場を強めた。盧武鉉前大統領に対する捜査で、パク・ヨンチャ泰光実業会長が果たした役割そのものだった。大検察庁は、いわゆる「パク・ヨンチャ・ゲート」の捜査過程で「パク・ヨンチャ元会長の陳述は、具体的で、ぶれがない」として彼の自白に全幅の信頼を寄せた。
イ前主席の捜査過程でも、検察は事業家チョ氏の口述に大きく依存した。しかし陳述拒否権について知らせないまま、任意で受けた陳述は、証拠能力が低いというのが司法部の判断だ。陳述拒否権とは、本人に不利な陳述を強要されない権利(日本語では「黙秘権」)のことだ。
キム・ヒョンミ前議員
この件については、標的捜査のまた別の被疑者にあげられたキム・ヒョンミ前大統合民主新党議員に対する判決が例示している。キム議員は2007年の大統領選挙で、李明博ハンナラ党候補(当事)の狙撃主として活躍した。彼はAKキャピタルの韓宝鉄鋼買収に関連し、大学の同窓生のムン某氏から1500万ウォン(約110万円)を受け取った疑いで起訴された。ムン氏は検察の捜査過程で2004年8月20日にキム前議員に賄賂を渡したと陳述した。キム全議員はこのとき中国にいた。すると、ムン氏は賄賂の金額を2000万ウォンから1500万ウォンに変え、日付も8月24日に変えた。
1審の裁判は2008年12月30日、ムン氏の陳述態度から自白の動機が疑わしいとしてキム前議員の無罪を宣告した。裁判所は判決文で「陳述拒否権が告知されていない状態で作成された陳述調書は、その証拠能力がないため、有罪の証拠とすることはできない」と述べた。AKキャピタルの韓宝鉄鋼買収を解決するとして第三者から2億ウォン(約1500万円)を受け取ったムン氏が、自分を狙った検察の捜査から逃れるために、代わりにキム前議員に賄賂を渡したと虚偽陳述をした可能性があるというのが裁判所の判断だった。キム前議員は2009年5月8日、控訴審でも無罪を宣告された。
キム・ジェユン民主党議員
「標的捜査」と「政治報復」疑惑には、このようにほとんどの場合「検察の舌」が登場する。裁判所はこれらの陳述に疑問符をつけるのが趨勢だが、「標的」と見なされた当事者にとっては検察の召還自体が大打撃となる。
キム・ジェユン民主党議員もそうだ。2008年のロウソク政局で、キム議員はロウソク国民保護対策団の団長を務めた。李明博政府の言論掌握強行処理に対しては、民主党の「言論掌握阻止対策委員会」を主導した。キム議員がメディアに登場する頻度がもっとも高かった2008年8月、大検察庁から出し抜けにキム議員の不法政治資金疑惑が出てきた。検察は、キム議員が済州島に外国系営利病院の設立を推進していたO社のキム某会長から、病院認可に関連する法の改正ロビーの名目で3億ウォンを受け取ったという手がかりを掴んだと発表した。検察の一方的な主張のみの状態だったが、チャ・ミョンジン(当事)ハンナラ党スポークスマンは「キム・ジェユン議員は、自分が民主闘士だと錯覚しているのではないか。だが実際はそうではない。国民の目には法の網をかいくぐって密室に隠れた犯罪者のようにしか見えない」とキム議員を攻撃した。
「別件捜査」によって方向を曲げる
結果はどうなったのだろう。裁判所は2009年3月6日、検察が請求した事前拘束令状を棄却した。「キム議員が受け取った3億ウォンが斡旋の対価なのか、借りた金なのか検証する必要があり、証拠隠滅や逃走の憂慮がない」というのが裁判所が令状を棄却した理由だった。
キム議員や民主党側では、検察が当初O社のキム某会長の陳述にのみ依存し、無理やり帳尻あわせ的な捜査をしてきたと主張した。民主党の関係者は、「検察は韓国石油公社の海外油田開発不正疑惑を捜査する過程で、O社のキム某会長に関する部分を追跡したところ、キム議員に渡した小切手が出てきたと発表したが、様々な状況を見ると、最初からキム議員を標的にするためにキム某会長を利用したようだ」、「検察の調査を受けたキム会長を免責する代わりに、キム議員に対する虚偽陳述を求めたとしている」と主張した。
実際に検察は昨年、野心満々で韓国石油公社の不正疑惑の捜査に着手したが、キム議員事件が「別件捜査」によって浮上してくると、そちら側に方向を曲げたのだった。韓国石油公社の不正捜査は、2009年5月29日にソウル高等裁判所がボーリング費用過多支給などで韓国石油公社に45億ウォンの損害を与えた容疑で起訴されたキム某元海外開発本部長に無罪を宣告したことで、何の成果もないまま終結した。
アン・ヒジョン民主党最高委員
アン・ヒジョン民主党最高委員に対する検察の捜査も、同じように進められた。大田地検は最近、アン最高委員の側近のユン・ウォンチョル前青瓦台行政官を拘束した(『ハンギョレ21』764号「
検察の標的捜査は現在も進行中」参照)。検察は、ユン前行政官が2007年9月にチャンシン繊維のカン・グムウォン会長から8000万ウォンを受け取ってアン最高委員に渡し、国会議員の補佐官をしていた2005年頃、知人に学校施設の改善などに関する請託と共に何度にもわたって1億ウォン前後を受け取ったと見ている。
当初、検察が描いた構図は「イ・チョルサンVK前代表→ユン・ウォンチョル前行政官→アン最高委員などの386政治家」とつながる、いわゆる「イ・チョルサン・ゲート」だった。しかし、この構図でイ前代表とユン・ウォンチョル前行政官、そしてアン最高委員に至る輪がつながらず、検察は目的を達成することができなかった。イ・チョルサン代表はアン最高委員などの386政治家に政治資金を提供した事実はないという陳述を変えておらず、拘束されたユン前行政官も検察が描いた構図に同意していない。
しかし、検察では依然としてアン最高委員の召還説が流れている。アン最高委員の側近は、「大田地検の周辺では、2008年10月から検察がアン最高委員に捜査の手を広げるだろうという噂が広まっていた」とし、「説明が必要な点があるのなら、アン最高委員本人に堂々と連絡して召命を求め、それでも釈然としないのなら起訴すればいいのに、そのような手続きは一切とらず、ただ噂ばかりを流している」と語った。
チェ・ソンジン記者
それは声なき叫び、見えない抵抗!
『ハンギョレ21』[2009.06.19第765号]
[表紙物語]『ギャグコンサート』を消して、木にネズミをぶら下げて…
ローザ・パークスやガンジーになりつつある「沈黙する多数」の本当の近況
▣アン・スチャン、イム・ジソン、イム・インテク
6月10日、ソウル市庁前広場に出てきた15万人余りの人々は、4900万の人口に比べれば少数派だ。政府や保守メディアは「沈黙する多数(サイレント・マジョリティー)」を例に挙げはじめた。源泉封鎖を公言する警察の脅しにもかかわらず、平日の夜に15万人にもなる市民がわざわざ足を運んだという事実は簡単に無視される。政府を批判する声が圧倒的だという世論調査の結果にも目を閉ざしている。警察の盾についている鋭い金属の刃が、集会に参加した市民の頭を正確に狙っている世の中で、善良な市民の多数は当然、沈黙する。広場には出てこない。恐怖で市民を沈黙させる能力は自慢できることではないはずなのに、そんな羞恥心が韓国の右派にはない。ところで彼らが本当にどう過ごしているのか気にならないだろうか?ここに、沈黙する多数の本当の近況がある。編集者
»それは声なき叫び、見えない抵抗!/イラスト=イ・ウイル
「私は誰かに強要されるために生まれてきたのではない。私は私のやり方で息をする。誰が強いのか見守ることにしよう」(ヘンリー・デビッド・ソロ、『市民的不服従』)
こうしていると息が止まってしまうのではないか、そんな心配がないわけではなかった。前日の夜、5時間しか眠れなかった。その前日、前々日、前々々日、そしてその前の日まで4日間、日の出を見た。最近、朝日が何時に出るのか知っている。朝4時30分になれば、東の空が白む。冠岳山の右脇に沿って出てくる朝日が、毎日言葉をかけてきた。「ちゃんと寝ろよ」と。首を振りながら耐えた。食事よりも睡眠が必要な体で、5月30日にハーフマラソンに参加した。
4日夜を明かし、黒いリボンをつけてマラソン
行政考試(試験)の準備をしているパク・チョルヒ(27/仮名)さんにとって、そのマラソンは密かな抵抗のフィナーレだった。5月23日、盧武鉉前大統領が逝去した。25日、友達と一緒にソウル新林洞の太陽公園に焼香所を作った。29日夜まで、24時間開いた。半ズボンにサンダル履きで裏道を散歩していた行政試験の受験生たちが、ぞろぞろと焼香所の前に来た。周辺を見回し、パクさんの顔も見つめた。そしてさめざめと泣いた。真夜中でも訪れて泣いた。
ただ受験勉強のストレスを発散した者が、たまたまあった誰かの涙を受け入れる。これは誰にでもできることではない。パクさんは「今まで自分がやったことの中で一番よくやったこと」だと思った。太陽公園の焼香所は、李明博政府に脅威を与えなかった。徳寿宮大漢門前の焼香所のように撤去の脅威にさらされることはなかった。それでもその前で5日間を過ごした。パクさんだけの静かな追悼であり、抵抗だった。マラソンは、その抵抗の一つの関門だった。みんなやめろと言った。4日も徹夜してマラソンだなんて。
それでもパクさんは路祭(出棺のとき門前や死人縁故の地の路上で行なう祭祀)の翌日の5月30日朝、李明博政府の国土海洋部が主催する「海の日」記念ハーフマラソンの21kmコースを1時間30分かけて走破した。見ろと言わんばかりにつけた黒いリボンも一緒だった。ソウル上岩洞のワールドカップ競技場から漢江大橋まで走り、早なる呼吸に耐える彼の黒いリボンを誰かが見ただろう。政府関係者も見ただろうし、一緒に走った市民も見ただろう。新林洞の受験生用アパートの机の前で「沈黙する多数」の一人だった彼にとって、他の抵抗の方法はなかった。
新しい社会を開く研究院のキム・ビョングォン研究センター長は「市民運動・労働運動は信頼を得られず、オンラインも政府の検閲で妨害されて活性化できなかったが、政権に対する不満と抵抗は、臨界点に達した」と話した。抵抗の情念は、ぐらぐらと沸騰している。ところが議会と広場へ向かう出口が塞がれた。自分の細胞にその情念を刻み込み、日常の小さな行動に意味を持たせるしか他の道がない。ところがそれは意外に強力な力だ。
抑圧が強ければ、大規模な集会・デモの代わりに「不服従」が始まる。個人の小さくて些細な行動だ。その行動が火種になる。広がり、はじける。チョン・サンホ漢陽大第3セクター研究所教授は、「レンズを盧武鉉や李明博に合わせず、日常の市民に合わせることだ」と語った。「追慕政局以降、人々が日常の中で怒り、参加する方式を見守る必要がある。人々が今、何かを各自で準備している」ということだ。
»市民的不服従は、個人の小さくて些細な行動から始まる。左側は5月25日から5日間、ソウル新林洞の太陽公園に設けられた盧武鉉前大統領の焼香所。右側は盧前大統領の国民葬の期間中に「心の中に黒いリボンをつけて走った」と述べて話題になった米メジャーリーグ・クリーブランドのチュ・シンス選手写真/右側からパク・チョルヒ(仮名)、提供・聯合ニュース
悪い友達と遊んだら、悪いクセがつく
20代のソヨンさんは、ソウル江南のルームサロンで働いている。本名や実際の年齢はわからない。ソヨンさんの政治・社会的存在感は、飛び散る粉のように軽い。6月6日、ある企業の社長が酒を飲みに来た。横に座って酒をついでいると、「自殺した盧武鉉」を云々する話が出た。「なぜ自殺なんですか?逝去でしょ」一緒にいた同僚のホステスも加勢した。「なんだと、このアマ。出て行け!」そのルームサロンのオープン以来、「ホステス」と「社長さん」が政治的見解の違いで争ったのは初めてだ。20万ウォンのチップは、良心の代価だった。笑顔を売り、真心まで売ることができなかったソヨンさんの抵抗だ。
1955年、米アラバマ州の小さな街、モンゴメリーでのローザ・パークスの存在感も軽かった。彼女は黒人の裁縫労働者だった。彼女に人種差別に対する意見を問う者は誰もいなかった。ところがローザはバスの中でビクともしなかった。席を譲れという白人男性の要求をそのまま聞き流した。とても疲れていた。なぜ席を譲らなければならないのか。黒人の座席と、白人の座席が別々にあった。ローザ・パークスは逮捕され、収監された。他の黒人たちが彼女の後に続きはじめた。人種分離法廃止を求める全国的なデモに発展した。巨大な黒人民権運動の始まりだった。小さくて些細な市民的不服従の力だ。
2人の子供を持つ主婦オ・ヨンヒ(36/仮名)さんは、好きだった番組『ギャグコンサート』を消した。『ギャグコンサート』が嫌いになったからではない。韓国放送(KBS)を見ないと決心したからだ。チャンネルを変えようとする子供たちの叫び声に毎日耐えた。「悪い友達と遊んだら、悪いクセがつくでしょ。この放送も見ちゃダメよ」彼女が見ないからといって、韓国放送の報道が簡単に変わるわけがない。それでもこれはプライドの問題だと考えている。オさんは受信料を拒否する方法を探している。他の人たちが同調してくれるかは、後で考えることだ。まず「オ・ヨンヒ」の名前で抵抗することが重要なのだ。
ソウル江南で小さな食堂を経営するチョ・ソンヨン(36)さんは最近、『東亜日報』、『中央日報』と決別した。「事実上、無料で置かれた」2つの新聞を解約し、進歩性向の新聞と週刊誌を新たに購読している。ネット上のサークルに「朝・中・東決別ノウハウ」を伝える書き込みもした。「食堂に行って朝・中・東があれば、『まだ朝・中・東をとってるんですか?』と言ってそのまま出るんですよ。どうせタダで置かしてもらってる新聞だから、お客様のためにも解約するでしょう」チョさんには組織がないが、その小さな行動から連帯を夢見ている。自分の実践が、もっと拡散することを願っている。
抑圧的国家に対する「個人の力」を強調していたヘンリー・デビッド・ソロは、1846年に投獄された。黒人奴隷制に反対し、人頭税納付を拒否した。代わりに公共の福祉のために使われる税金は、きちんと払った。彼の小さな抵抗が、すぐに実を結ぶわけではない。代わりに大きな波を起こす小石の役割を果たした。南北戦争直後の1865年、奴隷制を廃止する修正憲法が準備された。小さくて些細な市民的不服従の役割だ。
鍵盤を叩き、作曲もするシン・ジョンソク(32)さんは、インディーバンドをつくってソウル弘益大の前で公演をしてきた。今までの音楽活動がお粗末に思えてきた。「悲しみを悲しみで終わらせないために」、彼はどの公演でも『イマジン』を歌うことを決心した。ジョン・レノンの歌だ。すべての人間が兄弟になる平和な世の中を夢見てごらんという彼の歌を聴き、人々がどれだけ変わるかはわからない。それでも歌いつづけるつもりだ。
サムスンは瞬きもしないかも
»処罰と不利益に耐え忍ぶ勇気が市民的不服従の土台だ。6月10日、ソウル市庁前広場の封鎖に抗議している市民が、戦闘警察の前に座っている。写真『ハンギョレ21』リュ・ウジョン記者
1930年、インド西部アマダバード市でガンジーが行進を始めた。390km離れたダンディ海岸へ行き、インド人がつくった塩を手に入れるための行進だった。イギリスがインド人の塩生産を禁止し、イギリス産の塩に税金をかけたことに対する抵抗だった。たったそれだけの塩が植民統治と何の関係があるのかと、人々は斜に構えていた。しかし、出発のときは78人だった一行は、25日後には数万人に膨らんだ。ガンジーが伝統塩田で塩を一掴み手にすると、英国軍の指揮官が発砲命令を下した。だが誰も引き金を引くことができなかった。非暴力な直接行動の白眉として知られる「塩の行進」だ。小さくて些細な市民的不服従の波及力だ。
会社員のオ・ヨンテ(35)さんは5月末、自分の部屋の机に小さな焼香所をつくった。インターネットで手に入れた写真をA4用紙にプリントし、壁に貼った。会社から帰ると、香炉にタバコを1本そなえた。「追慕期間」が終わった今、彼は「言論消費者主権国民キャンペーン」(言消主)の不買運動に参加するつもりでいる。言消主に関して特別な活動をしたことはないが、言消主が目した企業の製品は買わないと決心した。言消主は6月4日、サムスンに対する不買運動を宣言した。オさんがサムスン・カードを使わず、エニイコールを避け、エバーランドに遊びに行くことを中断しても、サムスンは瞬きもしないだろう。それでも、とにかくサムスンの商品は使わないつもりだ。
キム・ウン(29)さんは最近『ハンギョレ21』の「美しい同行」キャンペーンに参加した。「美しい同行」は、定期購読を通じて市民社会団体を後援できるキャンペーンだ。彼が後援した団体は「言消主」だった。彼は「現代社会で一番力が強い運動方式は不買運動」だと考えている。不買運動に同調すれば、言論市場を正すという感じがして愉快だ。
1999年、フランス南部の小都市ミオでジョゼ・ボベは他の住民と一緒にピクニックに行った。マクドナルドの前だった。住民たちの音楽バンドが演奏をするなか、ボベは耕運機でマクドナルドの店を壊した。えっ?なぜマクドナルドかですって?世界のあちこちでそのような問いがあった。その後もマクドナルドは全世界で店舗を増やしたが、「新自由主義」に対する憎しみや侮辱の対象になった。小さくて些細な市民による不服従の潜在力だ。
英文学を専攻する大学生のキム・ギョンヒ(25)さんは、5月最後の週は黒い服ばかりを着た。毎晩、洗っては着た。家庭教師を毎日している。毎日、江南に行く。「若い人たちは節操がないわ。大統領のときはあんなに悪口ばかりだったのに、死んだからって今さら騒ぐの?大漢門の前に行く人たちは、どうかしてるんじゃないの?」ある母親がこう漏らした。lそれでもキムさんは胸につけた黒いリボンをはずさなかった。学費を稼ぐには、江南ママから金をもらわなければ。だからと言って、信念までは渡せないと考えた。苦学生のキムさんとしては、とてつもない勇気が必要なことだった。
2003年、戦場のど真ん中へ200人余りの各国の市民が、見ろと言わんばかりに入っていった。米軍が「誤爆」を装って爆撃する可能性が高い民間施設に、自分の足で入っていった。爆弾が落ちればみんな死んでしまう場所だった。自らを「人間の盾」と呼んだ。おかげでイラク戦争で頻発する米軍の良民虐殺が、世界に伝わった。生命の危険を甘受し、より多くの生命を救った。小さくて些細だが、それだからこそ訴える力がある市民的不服従の偉大なる成就だ。
「強い市民」の進歩政党入党願書
シン・ジンウク中央大教授(社会学)は、市民の「個人行動」を注意深く眺めている。まずは政府の「脅迫効果」の結果だと見ている。集会・デモ現場が封鎖され、勝手に撮られた写真を証拠に捕まり、インターネットに政府に批判的な書き込みをすると拘束されるということが繰り返されながら、「広範囲な行動に参加する“敷居”が高くなった」ということだ。
しかし、それが萎縮の兆候ではないとシン教授は判断している。他の形の「抵抗」が芽生えはじめているからだ。「敷居が高くなったので行動や実践は“個人レベル”で行われるが、批判世論はむしろ広範囲に形成されている。激しい怒りというよりも、政府から完全に情が離れた「冷たい憎しみ」の状態だ」その憎しみを表現し、分かち合う些細なことから「直接行動」が始まる。
漫画家パク・ゴンウン(38)さんの作業場は、京畿道富川にある。作業場の前に花壇がある。木もある。そこに紙粘土でつくったネズミがかけられている。片腕ほどの大きさだ。「こうでもしないと鬱憤が晴れなくて」やらかしたことだ。そんな心境で生きていく人々に会いはじめた。絵を描く人、漫画を描く人を集めて「政治的」漫画雑誌を創る計画だ。6月の第3週に初めて集まる。苦労しながら雑誌をつくったところで、多くの人たちが読んでくれるかどうかはわからない。それでもつくるつもりだ。そうでもしなければ、鬱憤がたまるばかりだからだ。
情報通信(IT)企業に勤めるチョン・ホヨン(32/仮名)さんは、「考えてばかりの小市民から、実際に行動する市民に変身する」決心をした。会社に嘘をついて5月29日の盧武鉉前大統領の路祭に参加したチョンさんは、家に帰ってから妻を抱きしめながら泣いた。「強くなるから。本当に強くなるから」強い市民、チョン・ホヨンは、ある進歩政党に入党願書を出した。来年の地方選挙とその次の総選挙・大統領選挙で遊説地を回り、ボランティアもするつもりだ。だからと言って、進歩政党の議席が突然増えることはないだろうが、どうであれ気持ちだけ応援していたかつてとは決別する考えだ。
これらの気持ちを黒人民権運動家マーティン・ルーサー・キングは、1963年の有名な演説ですでに代弁している。「我々は不正な法律に服従せず、不正な行為に屈服しません。我々は平和的で堂々とした喜びで満たされた状態で不服従を実行するのです。我々は言葉によって説得し、それが失敗した場合には行動で説得します。我々は必要ならば喜んで危険を甘受する準備ができており、我々が求める真実の目撃者になるために、我々の命までも危険にさらす準備ができているのです」
ザワザワ、それぞれの考えや行動
世界的な政治学者、エイプリル・カーターは『直接行動』で「自由が許容される国では取るに足りないと思われる(個人の)行動が、抑圧的な国ではとてつもない抵抗行為としてみなされ、甚大な影響を与えることができる」と書いた。シン・ジンウク教授は「多くの人々に道徳的共感を与えることができる平凡な人の小さな行動が、些細なきっかけで広範囲の社会運動に広がる可能性がある。政府ができる限り高めておいた集会・デモの敷居の前で、人々がざわめいている。各自が別々のことをしている。その中で誰かは「マハトマ・ガンジー」または「ローザ・パークス」、あるいは「ジョゼ・ボベ」になるのだ。
市民的不服従の歴史
より「多くの」民主主義のために
「市民的不服従」は現代民主主義の核心理念だ。憲政制度自体を否定するわけではないが、特定の法や制度を拒否し、それによる処罰や不利益まで喜んで受け入れる市民たちの公然とした行動が市民的不服従だ。したがって「完全に合法的な」市民的不服従はない。あらゆる市民的不服従は、法・制度をある地点から拒否する行動だ。法的処罰や経済的不利益を喜んで受け入れる「自己犠牲」の側面が強いため、「集団利己主義」とも区別される。
論争は主に「暴力」に関することから発生する。アメリカを代表する政治哲学者、ジョン・ロールス(1921~2002)は、「非暴力」行動を市民的不服従の核心と見なした。ガンジーの非暴力抵抗が、ロールスの言う市民的不服従の代表事例だ。一方、ヨーロッパを代表する政治哲学者、ハンナ・アーレント(1906~75)は、暴力の有無で市民的不服従を定義することに批判的だ。彼女の観点によれば、マクドナルドの店舗を耕運機で破壊したフランスの農民、ジョゼ・ボベの行為は、「不法」なだけでなく「暴力的」だったが、「正当な不服従行動」だった。
しかし、市民的不服従の暴力的要素を肯定する場合でも、△社会普遍の正義観念に訴える公益的目的を持ち、△多くの人々が見守る中で公然と行われ、△他人の身体・生命を直接害するものであってはならない、というのが多くの学者たちの考えだ。警察を殴打する「リンチ」、密かに爆弾を設置する「テロ」、憲政体制を頭から否定する「革命」などは、このような市民的不服従とは明らかに区別される。
ドイツなど外国の憲法は「非暴力的な方法による非妥協・阻止・拒否・直接行動」などを総称する抵抗権を明示的に認めている。韓国憲法には明文規定がない。しかし、前文では「不義に抵拒した4・19民主理念を継承」すると明示している。市民的不服従の憲法的正当性を認めているのだ。政治学者エイプリル・カーターは、「権力に反対することが危険な抑圧的体制では、密かに行う(個人の)受動的抵抗も直接行動」だと定義している。最近、起こりはじめている市民たちの個人的抵抗が、これに該当する。
李明博大統領は今年の6月10日、歴史に残る発言をした。ソウル世宗文化会館で開かれた6・10民主抗争記念式で、「民主主義は合理的な手続きと制度そのもの」であり、「自分の主張を貫徹させるために法を破り、暴力を行使する姿が我々が苦労して成し遂げた民主主義を歪曲している」と言った。イ・ダルゴン行政安全部長官が代読した。李大統領が直接参加しない理由は、まだ明らかにされていないが、その発言は「センセーショナル」だ。「手続きと制度そのもの」を民主主義のすべてだと理解するのは、19世紀、あるいは20世紀初頭の考えだ。
たとえば「エリート主義の理論化」であるヨーゼフ・シュンペーター(1883~1950)は、「政治をうまくするにはエリートの統制が必要であり、市民は選挙でないときは政治参加を自省する方がよい」とした。シュンペーターを今さら引き合いに出し、現代の政治学者の中で民主主義を「手続きと制度」に狭めて理解する者はほとんどいない。代議民主主義ではなく参与民主主義、審議民主主義、談論民主主義などによって民主主義を深化することが課題だとしている。ここでの市民的不服従は、代議民主主義を補完しながら民主主義全体を深化する核心要素だ。
例えば、エーリッヒ・フロム(1900~80)はこう言った。「人類の歴史は不服従の行為から始まった」ジョン・ロールスがこう言った。「市民的不服従は不法ではあるが、結局は立憲制度を安定させる道具のひつとだ」ユルゲン・ハーバーマス(1929~)もこう言った。「本当の法治国家は単純な合法性を土台に正当性を打ち立ててはならず、市民には方に対する絶対的服従ではなく、条件付の服従を求めなければならない」
ジョ・ヒョジェ聖公会大教授(社会学)は、「代議制民主主義のみを民主主義とすることは間違い」であり、「うまく動いている民主主義体制だとしても、民主主義をより発展させるための直接行動は正当化される」と定義している。民主主義は「ある・ない」の問題ではなく、「多い・少ない」の問題であり、市民的不服従はより多くの民主主義を求める正当な行動だという意味だ。
しかし、2009年の韓国市民たちの胸に占める不服従の情念が、どこまで、どのように拡散するのかはわからない。ただの個人の鬱憤として終わるかもしれない。カギは自己犠牲の甘受だ。喜んで処罰を受けるという姿勢がなければ、市民的不服従は道徳的象徴性と政治的影響力を手に入れることができない。政治学者オ・ヒョンチョルは著書『市民的不服従-抵抗と自由の道』で、「市民的不服従のためには自己犠牲の勇気と、特権を放棄できる勇気が必要だ」と書いた。勇気がなければ、不服従もできない。
アン・スチャン記者
アン・スチャン記者、イム・ジソン記者、イム・インテク記者