弁護士を現行犯で、その蛮勇に敬意を!
『ハンギョレ21』[2009.07.17第769号]
[表紙物語]グォン・ヨングク弁護士の逮捕・捜査体験記-弁護士も弁護士が弁護してくれるので、不安感がなくなりますね
私は「民主主義のための弁護士の会」(民弁)労働委員会委員長として今年の6月26日、双龍(サンヨン)自動車平沢(ピョンテク)工場の正門前で開催する予定だった「双龍自動車リストラ事態の望ましい解決のための労働法専門家による共同記者会見」に参加するために、バリケードが設置された平沢工場前に行った。工場の周辺に見えるのは、制服に身を包んで盾を構えている警察と戦闘警察隊員だけだった。
»5月14日、グォン・ヨングク弁護士がソウル瑞草洞のソウル中央地検前で、竜山惨事における「真実の隠蔽、偏頗歪曲捜査を行った検察糾弾大会」を終えた後、警察に連行されている。グォン弁護士はそれから40日余りが過ぎた6月26日、京畿道平沢の双龍自動車前で再び連行された。弁護士が時を構わず連行される国、大韓民国の人権の現実だ。写真=ハンギョレ/キム・ミョンジン記者
ミランダ原則にサインしろという警察
予定された時間が過ぎ、会見参加者たちを待っていたところ、工場から歩道に移動していた数人の双龍自動車支部の組合員たちが、何の逮捕理由も知らされないまま、戦闘警察隊員に取り囲まれて抑留された。私は弁護士として、警察の現場の指揮官と思われる人物に、逮捕理由が何なのか告知することを要求したが、彼は「指名手配者なのか、逮捕令状が出ている者なのか確認するためのもの」だと答えただけで、逮捕理由を説明できなかった。
検事または司法警察官が被疑者を逮捕する場合は、逮捕に先立って被疑事実の要旨と逮捕理由、弁護人を選任できるという事実を告知し、弁明する機会を与えなければならない(刑事訴訟法第200条の5)。これを「ミランダ原則」と言う。ところが警察の指揮官は、かなり時間が経ってから上部との無線交信をした後に、抑留された組合員たちに「退去不応罪の現行犯で逮捕します。弁護士を選任する権利があります」とだけ告げて組合員を連行しはじめた。私は警察の告知内容(弁護士を選任できること)に従い、警察の護送車両の前に立ちはだかって弁護士として連行者へ接見することを要請した。ところが警察は、弁護士資格で弁護人接見を要請した私を「公務執行妨害罪の現行犯」で逮捕し、またかなりの時間が経った後に、先に連行された7人の組合員が乗っている警察の護送バスに押し込めた。
私と仲間は、警察の指揮官と警察官に対して激しく抗議したが、物理的に力不足だった。李明博政権が発足して以来、日常的に行われている警察の恣意的な法執行、その現場を見せ付ける一つの断面だ。弁護士の正当な接見要請さえ、公務執行妨害罪の現行犯として逮捕してしまう警察の蛮行、その蛮勇に敬意(?)を表する。しかし、不法逮捕・監禁に対する刑事責任は、決して消滅しない。
警察官はバスの中で、私に「警察からミランダ原則を告知された」という事実に対して署名するように要求してきた。私は逮捕されたとき、犯罪事実に対してのみ告知された記憶があるだけだったので、確認書に署名することを拒否した。警察が要求してくる確認書に、むやみに署名してはならない。後で警察の逮捕を適法に変える主要な証拠になりうるからだ。
私は警察の護送車両に乗せられてすぐ、民弁のソン・サンギョ弁護士に電話で逮捕・連行事実を伝えた。そして一緒に連行された組合員には、弁護士が接見に来るまで陳述を拒否することを話した。弁護士の助力を得る前に口を開くことは、とても危険だからだ。すべての国民は自分に不利な陳述を強要されず(憲法第12条第2項)、検事または司法警察官は被疑者を審問する前に必ず陳述を拒否できることを知らせなければならないため(刑事訴訟法第244条の3)、陳述を拒否することは被疑者の憲法的権利だ。そのため、弁護人の助力を得るまで陳述しないことを明白に伝えなければならない。
映像録画をしようという「知能犯罪1チーム」の巡査部長
我々は水原西部警察署の知能犯罪1チームに護送された。しばらくしてソ・ボヨル弁護士が接見に訪れ、他の組合員には別の弁護士が接見に来てくれた。捜査官の調査を受ける前に弁護人の助言を聞くことは、絶対に必要だ。捜査をどのように受けるのかを聞いてから、応じなければならない。そうしないと被疑者は自分を守ることが事実上、不可能になることもある。
かなりの時間が経ってから、事件発生の管轄署である平沢警察署から送られてきた犯罪事実と被害者の陳述を根拠に、私の組合員たちに対する調査が始まった。私を担当した捜査感は、水原西部警察署の知能犯罪1チームの巡査部長だったが、まず人的事項について質問してきた。私は身分証明書を見せて人的事項を確認させた。彼は調査(被疑者審問)の前に私に「一切の陳述をしなかったり、個々の質問に対して陳述をしないことも可能で、陳述をしなくても不利益を被ることはなく、弁護人の調査参与など、弁護人の助力を得られること」を告知してくれた。検事または司法警察官は、被疑者の審問に先立って陳述拒否権と弁護人の助力権について告知した後に、その権利を行使するかを質問し、これに対する被疑者の答弁を調書に記載しなければならないからだ(刑事訴訟法第244条の3第2項)。万が一、捜査官が陳述拒否権と弁護人の助力権について告知せずに調査をした場合には、調書にその事実を必ず記載しておかなければならない。裁判の際に、陳述の任意性(強要による陳述なのか、そうでないのか)を争うことができる有力な証拠になるからだ。
ところが捜査官は、不意に映像録画室で調査をすると言った。捜査過程での手続き的な是非を遮断するためのようだった。私は接見権を侵害された被疑者として、犯罪者扱いをされることが非常に不快だったので、映像録画を拒否した。当惑した捜査官は、捜査過程で報告した後に、映像録画なしで捜査することとした。参考までに、被疑者の審問の際に映像録画は必ずしなければならない義務事項ではない。映像録画の実施の是非について、被疑者が同意権を持てなくても、映像録画をする場合には事前にその事実を知らせなければならず、調査開始から終了までの全過程を録画しなければならない(部分的に録画すれば法的効力がない)。そして完了したら、被疑者または弁護人の前で遅滞なく封印して被疑者に説明しなければならない。被疑者または弁護人が要求した場合、必ず映像録画物を視聴させなければならず、その内容について異議を陳述すれば、その趣旨を記載した署名を録画物に添付しなければならない。被疑者ではなく、参考人は、映画録画を拒否することができる。
調査段階で国選弁護人が導入されなければならない理由
どうにか映像録画なしで調査が進められた。ソ・ボヨル弁護士が調査に参与することになり、調査されるその場所で弁護人選任書を作成して提出し、私の横に座った。海千山千の弁護士である私にさえも弁護人が横にいるので、不安感が消えて心強かった。一般人にとってはさぞや心強いことだろう。重要な事件や、警察との利害関係がかかっている事件の調査では、弁護人の参与が切実に見える。捜査過程では、弁護人の参与だけでも警察による脅迫や誘導性の質問を牽制することができ、被疑者の容疑に対する実質的な防御を準備することができるようにするという点でも必須となる。被疑者として調査される段階から、国選弁護人を置く制度が必ず導入されなければならない理由でもある。
私は財産や家族関係、病歴など、事件と関係のない部分についてはすべて黙秘権を行使し、事件関連の質問に対してだけ性格に陳述しようと努力した。3時間に渡る調査が終わった。そして私は被疑者審問調書をじっくりと読んだ。捜査官から鉛筆を借り、私の陳述と違ったり、漏れた部分を一々修正して追加した。被疑者審問調書は裁判で有力な証拠として使われるため、必ず隅々まで精読し、必要な場合は本人が直接修正したり、調査官に修正や補完を要求しなければならない。万が一、捜査官が修正や補完の要求を拒否した場合、被疑者は被疑者審問調書に捺印することを拒否しなければならない。後で調書の真実性を争うことになりかねないからだ。
夜10時35分、他の組合員に対する調査も終わり、留置場に収監された。所持品とベルトを預け、金属探知機で身体検査をする手続きを経た。20年以上前に、慶州(キョンジュ)刑務所で素っ裸で身体検査を受けた恥辱がよみがえった。もし今でも警察官が人権侵害的な身体検査を試みるのなら、当然、抗議しなければならない。通常、容認できる範囲を超えた身体検査を強制しようとするなら、押収捜査令状を出すように要求することができる。
身体検査を終えた後、「宗教1室」と記載された部屋に入った。本当に罪人になったような気がする。先に入っていた他の一般被疑者3人は、暗い表情で眠っていた。部屋のトイレの仕切りは昔よりもかなり高くなっているが、薄暗い証明、冷たい床は20年前とそれほど変わっていないようだ。警察官に歯ブラシを要求し、簡単に洗顔と歯磨きをしてから薄い布団を敷いて横になった。警察の不法逮捕に抗議するつもりで食事に手を出さなかったので、ひどく腹が減った。ようやく眠りについたが、世の中が逆戻りして1980年代の路上でいきなり警察から追い回される夢を見た。
恣意的逮捕・拘禁を阻止するための最小限の処置
翌日の朝7時に起き、一日中あぐらを組んで田舎で医師をしているパク・ギョンチョルが書いた『美しい同行』を読んだ。本を読む余裕(?)ができるなんて…。午後3時頃、ソ・ボヨル弁護士が接見に訪れ、逮捕適否審査を請求するための請求書を準備してきた。私も同意した。逮捕適否審査とは、逮捕された被疑者に対して検事が拘束令状を請求する前に、裁判所に逮捕の適法性と継続必要性の有無について審査を要求し、釈放を求める制度だ。
午後4時頃、事件の管轄である平沢地方裁判所で逮捕適否審査請求書が受け付けられた。夜9時頃に私は私服刑事2人に連れられて窓格子のついたボンゴ車に乗り、平沢地方裁判所に向かった。夜10時、平沢地方裁判所で審理が始まった。ソ・ボヨル、イ・ジェホ、カン・ムンデ弁護士が参与してくれた。若い判事の審問に、私は逮捕された経緯について詳しく陳述した。弁護人の弁論を最後に30分余りの審問手続きが終了し、決定が下されるまで建物の中で待たされた。
結局、日付が変わった28日の午前12時20分頃、「被疑者の釈放を命じる」という内容の逮捕適否審査決定文が伝達され、私はようやく警察から解放された。拘束から解かれるというのは、やはりうれしいものだ。しかし釈放の喜びは後回しにして、急いで逮捕の経緯を整理した。不法逮捕に加担した警察官の法的責任を問うためだ。これは警察の恣意的な逮捕や監禁を阻止するための最小限の措置なのだ。
グォン・ヨングク弁護士
盧武鉉大統領と李明博大統領
『メディア・オヌル』[大統領と民主主義]
14.時局宣言から顔をそむける明博
2009年07月13日(月)16:45:16 コ・スンウ論説室長
盧武鉉大統領の49日が終わった。しかし、彼の悲劇的な死の原因となった執権層の傲慢ぶりや独善は相変わらずだ。青瓦台、ハンナラ党はマイウェイばかりを歌っている。市庁前の広場には相変わらず警察が常駐し、南北関係の危機指数は上昇しつづけている。青瓦台を始発点とする不通の壁は高くなるばかりだ。盧前大統領が社会に投げかけた衝撃と教訓は、火種としてまだ残っているのか、それとも梅雨時の洪水で流されてしまうのか?
現政権が時局宣言
*をした教師たちを一斉に懲戒したことは、青瓦台の本音が何なのかをあらわにした。それは市民社会に対する宣戦布告だ。つまり、ロウソクや時局宣言は現政府とは関係なく、公安秩序は人権よりも優先し、南北関係についてはアメリカや日本べったりの共助によって北朝鮮を屈服させることが目標だということを現政権が強調しているのだ。
▲盧武鉉前大統領の49日の法要が行われた今月10日午後、ボンハ村に盧前大統領の大型の肖像がかけられていた。ⓒイ・チヨル記者
ボンハ村のミミズク岩の悲劇は、500万人が弔問した逝去政局に続く時局宣言政局で鎮火した。各界各層の数万人が李明博大統領の謝罪と国政転換、南北関係の正常化などを時局宣言によって主張した。時局宣言には、現政府が発足以降に破壊した民主主義や南北関係を正常化させるべき当為性が含まれている。青瓦台の不適切な政治に対する国内外の問題提起は、昨日今日のことではない。つい最近、国際アムネスティが韓国の民主主義、人権が大幅に後退していると発表したことは、外部世界に映った韓国の姿を見せつけ、我々を赤面させた。
盧前大統領の逝去によって、この国の人権蹂躙や民主主義の後退、南北関係の破綻の現実がすべての関心事になった。検察は被疑事実をメディアに中継するなど、推定無罪の原則から守られるべき水準を破棄しながら盧前大統領の人権を完全に踏みにじった。検察、警察が公権力の執行過程でとった反人権的態度は、ロウソク集会やデモ、竜山惨事
**などで持続的に繰り返された。平和的なデモや集会は源泉封鎖され、市民の広場は警察の車の壁で遮断された。当局は撤去民の生存権の主張を都心テロに追いやり、警察の特攻隊作戦を展開して市民と警察が死傷する惨劇が起こった。
政治権力は、狂牛病牛肉の拙速な輸入に対する国民的抵抗を特定放送局が原因を作ったとして、法によって任期が保障された放送局の社長を強制解職した。青瓦台は繰り返される失政をメディアのせいにしながら、天下り社長の投入などによって放送掌握を試み、メディア悪法で言論市場を金持ちと守旧勢力の所有物に転落させようとしている。市民による生存権の主張、表現の自由と言論の自由への抑圧に対する糾弾が続いているが、青瓦台は車の壁の背後に隠れて民主主義の時計を20年以上前に後退させてしまった。
現政権は、南北関係の平和的交流協力に関するロードマップだった6・15共同宣言と10・4宣言に背きながら、南北関係を冷戦時代の対立局面に転落させることに寄与した。アメリカのオバマ大統領がブッシュ前大統領顔負けの対北強硬策を駆使しているなか、青瓦台はそれに便乗し、戦争も辞さないという態度で北を圧迫している。政治と外交は戦争を防ぐことに主力を注ぐべきだ。そうせずに、相手が指を攻撃してくるなら腕をへし折るぞと言わんばかりの好戦的な態度では困る。現政権の要職参与者の多数が兵役の義務すら履行していないから、このように戦争をよその国の話のように考えるのだろうか?
李明博大統領は、盧前大統領の49日の直前にヨーロッパ歴訪に旅立った。李大統領は数多くの時局宣言で要求された国民への謝罪や、国政転換について知らぬ存ぜぬで通すばかりか、指弾の対象だった4大河川に数十兆ウォンを投入する事業計画を見ろと言わんばかりに発表した。李大統領の外遊直前に起こった非正規職問題に対する解決方法は、その後に訪問することになっていたヨーロッパ連合(EU)議会が昨年末にすでに世界に提示していたが、大統領は非正規職法の延期を注文しただけだった。先進化は彼のおなじみのフレーズだが、非正規職に対するEUの先進化方式からは目をそらしたのだ。
EU議会は昨年10月、非正規職の処遇を正規職と同一にする法律を通過させた。同一労働・同一賃金という職場での人権保護原則を法制化したのだ。EUの非正規職労働者は、これから3年以内に就業期間だけに差があるだけで、他の処遇は正規職と同一な法的保護を受けられるようになった。李大統領は我々の非正規職法が正規職に義務化することは、EUの関連法よりもさらにもう一段階高い労働者の人権伸長措置だということを理解できないのだろうか?
非正規職の解雇騒動が起きるという政府の軽はずみな言動は、分散サービス拒否(DDoS)攻撃の嵐の中でひっそりと行方をくらませた。DDoS攻撃が始まった直後、その背後勢力は北朝鮮だという国家情報院の資料が公開されたことは、尋常なことではない。国家情報院のそのような発表に対して、情報保護の主務部署である放送通信委員会と韓国情報保護振興院(KISA)は、北朝鮮発のIP(インターネット・プロトコル)がないため、技術的に確認が困難だという立場を明らかにした。国家情報院がでたらめな資料を出したと満天下に知らしめて恥をかかせたのだ。
しかし国家情報院の態度は、対北感情を悪化させる心理戦の一つだという印象を与えた。李大統領がEU訪問中に「この10年間の対北支援は、北朝鮮の核武装を支援した」という発言の含蓄性は、国家情報院の向こう見ずな対北攻勢と一脈相通ずるところがある。確実な証拠もなく、まず北を「悪の枢軸」に追いやろうとする伏線がそうだ。国家情報院と李大統領のそのような態度が出てきた直接的な理由は何なのだろうか?それは中断してから1年になる金剛山観光と、現在南北間の交渉が進んでる開城公共団地を狙ったものと思われる。
青瓦台は金剛山観光の再開はなく、開城工業団地に対する北側の要求は絶対に受け入れないという信号をそんなふうに送っているのだという推定が可能だ。李大統領が訪れたEUの現住所は、経済統合によって第1次、第2次世界大戦のような惨劇を源泉封鎖するという努力が結実した場所だ。李大統領がEUで南北関係改善の当為性と合理性を学んだという兆候は、未だに見られない。盧前大統領が6・15宣言の実践方案として北側と合意した10・4宣言が、南北経済共同体の青写真なのではないのか?
李大統領がEU訪問に当たって国家人権委員長が辞退し、「政権は有限だが人権は永遠だ」という発言で現政権の時代錯誤的な反人権政策を批判した。李大統領がEU訪問の過程で、人権先進国として尊敬されていた韓国の人権が後退した点や、EU統合が南北間の経済共同体造成のモデルになりうるということを悟る契機になればと思う。また、4大河川事業に数十兆ウォンの予算を投入する代わりに、サイバーテロ防止などのIT産業先進化に政策転換をすることを期待してみよう。
*時局宣言 現在当面している国内および国際情勢や大勢、その国の時代状況、特に政治や社会的に大きな混乱があったり、何か問題があると判断されたとき、教授などの在野の知識人や宗教界の人々が憂慮を表明し、解決策を求めること。今年の6月、全国93の大学の教授4500人以上を含む、各界の有力者など1万人以上が時局宣言に賛同した。教育科学技術部は、時局宣言に参与した全国教職員労働組合(全教組)所属の教師1万7000人余りの大部分を懲戒処分または行政処分し、88人は解任、停職などの重懲戒とした。
**竜山惨事 2009年1月20日にソウル竜山区漢江路2街に位置する建物の屋上で、篭城をしていた賃借人と全国撤去民連合会の会員、警察、用役職員たちの間で衝突が起きたなかで発生した火災により、多数の死傷者が発生した事件。この事件で撤去民5人と警察特攻隊1人が死亡し、23人が重軽傷を負った。
冷戦の「追憶」が色あせる冷戦の「現実」
『ハンギョレ21』[2009.07.17第769号]
[キム・ヨンチョルの冷戦の追憶]
金剛山と開城工業団地が北朝鮮の核開発をもたらしたと言う…ようやくわかってきた、明博の月明かりを
»「離散家族は今どうなっているのか」。2007年10月17日午後、北の地、金剛山の外金剛ホテルで行われた第16次離散家族再会行事で、北側の兄ユン・ヨンソプ(73)さんが南側の妹ユン・ボクソプ(68)さんと抱き合いながら涙を流している。写真/写真共同取材団
ちょっと前にタクシーに乗った。北朝鮮がミサイルを発射したというニュースが流れた。「民主的な人」だと思っていたタクシーの運転手が、突然「保守的な人」に変わった。「面食らう」とはこんなときに使う言葉だろうか?「やつらは飢えているくせに、いったいどこから出た金でミサイルをばんばん発射しやがるんだ…」それに続く話は、だいたい検討がつく。やはり「金大中・盧武鉉政権が北朝鮮を甘やかした」という話、「一方的支援イデオロギー」だ。韓国のいわゆる保守が言うことのなかで、おそらく一番成功したフレームなのではないか。
成功したフレーム、「一方的支援イデオロギー」
だからといって、李明博大統領まで出てくることなのか。突然驚いた。「この10年間、北朝鮮に支援した金が北朝鮮の核開発に使われた」、そして「疑惑」を提起した。李明博政府の対北朝鮮政策の正当性を確認する発言だ。この発言は、これまでの1年6ヶ月間、李明博政府が南北関係をなぜこのようにしたのか、これから残りの任期期間の対北朝鮮政策をどのように導いていくのかを予告する「決定的一言」だ。
なぜ6・15(金大中・金正日/2000年)と10・4(盧武鉉・金正日/2007年)、二度の南北首脳会談を否定したのか、なぜ金剛山観光が中断してから1年が過ぎても放置されているのか、なぜ開城工業団地が閉鎖されても関係ないという態度なのか、なぜ最近は企業家の北朝鮮訪問まで全面禁止してしまったのか、そして経済を生き返らせるという政府が、困難な時期を切り抜けてきた中小企業の声に耳を傾けないのか、ようやくわかってきた。すべての疑問が解けたのだ。
「いくらニューライトとはいえ国政運営の責任者なのだから、朝鮮半島情勢の管理に対する責任感を感じているだろう」と考えていた。「朴正煕、全斗煥、盧泰愚などの保守政府でも対話をし、交流協力を推進していたではないか」そんな一縷の期待感もあった。しかし、我々は今まで大韓民国の歴史において、見たことも聞いたこともないような対北朝鮮政策の実体を目撃している。
「一方的支援」、これは保守メディアや保守政治家たちが合作し、発明した憎悪のイデオロギーだ。政治的扇動としてはそれなりに成果があった。しかし、政策として話すにはあまりにレベルが低く、根拠が弱い。結論から言えば、この10年間に政府レベルで北朝鮮に渡した現金はない。
2000年の南北首脳会談の頃、北朝鮮に渡った4億5000万ドルは、特検でも明らかにされたことだが、現代(財閥)の7大対北経済協力事業独占権の対価だ。政府が送金の便宜を提供し、外為取引法違反で起訴されたが、首脳会談の対価ではないことは明白だった。それでも一方的支援だと言う人々は、まず対北送金特検の捜査結果発表文を読んでみることをお薦めする。
»半世紀の分断の痛みを越え、北の地、金剛山観光の道を開いた「現代金剛号」が1998年11月18日午後、東海湾の埠頭で市民に歓送されながら出港している。写真/ハンギョレ資料
政府レベルで北に渡した現金はない
前の政府から現物を人道的支援目的で、鉄道を連結するために、道路を建設するために渡したことはある。しかし現金支援はなかった。北朝鮮に渡った現金の正体は一体何なのか?金剛山観光の代金、開城観光の観光料、開城工業団地の賃金、そして交易の代金だ。政府レベルではなく、民間の正常な経済的取引の代金だ。このような金が渡ってはならないのだろうか?では経済協力をするなということなのか。貿易をしながら貿易代金の用途を指定することはできない。近所のよろず屋のおじさんが博打をするからと、ジュースの代金の代わりに現物を渡すことができるのか。
だったら、そんな店に行かなければいいって?南北経済協力がそのようにできれば、どれだけいいだろうか。金剛山観光には、今まで195万人が訪れた。行くなと?それこそ一部のニューライトの考えであり、健全な常識を持った人なら同意しないだろう。開城工業団地に関して、他の代案はあるのか?労働集約的な中小企業が中国やベトナムでいろいろやってみたが失敗し、最後の出口として考える場所だ。地球上で、1カ月60ドルの賃金で起業できる場所はどこにあるのか?開城以外にはない。開城工業団地の賃金を一方的支援だって?韓国の中小企業がこれまでに手に入れた数十倍の利益を、なぜ無視するのか。
交易も我々が必要だからしたのだ。北朝鮮産の砂交易を例に見てみよう。2007年の場合、北朝鮮産の砂の搬入量は1495万㎥で、首都圏の年間需要量(3700万㎥)の40%を占めている。一年の砂代金として支給した金額が3500万ドル(2007年)で、金剛山観光の代金(年間2000万ドル)や開城工業団地の賃金よりも多かった。なぜこのような現象が起こったのだろうか?韓国内で河川砂や近海の海砂採取に対する環境規制が強化されたため、起こるべくして起こった現象だ。もちろん李明博政府になって環境規制がひそかに緩和され、韓国内沿岸の海砂採取量が増えた。しかし、北朝鮮産の砂が搬入されない2009年に入り、砂の価格が暴騰していることも事実だ。
開城は中小企業の最後の出口
»「冷戦の半世紀を越えて」2000年6月15日午後、平壌順安空港からソウルへ帰る専用機のトラップに上がる直前、金大中大統領が金正日国防委員長と惜別の抱擁をしている。写真/青瓦台写真記者団
「一方的支援」は政治的スローガンだ。大衆の情緒を一瞬で歪曲することができるが、事実ではない。討論の主題にはなりにくい。一方的支援という用語は、あらゆる交流協力を一方的な施しとして規定してしまう。だから一方的支援はしないという政策が出てきた。しかし、取引はギブ・アンド・テイクだ。特に民間の経済協力は、経済性がなければ不可能だ。盧泰愚政府の「7・7宣言
*」以降、南北の経済協力が始まった。利益を出す企業は事業を続け、出せない企業は事業を中断した。15年以上、堅実に委託加工事業をしている企業もある。そんな企業に対して李明博大統領が言った。あなたが北朝鮮の核開発を支援したと。金剛山を訪れた195万人にも言った。あなたが払ったお金で北朝鮮が核開発をしたと。開城工業団地の中小企業の経営者にも言った。あなたが払った賃金で北朝鮮が核開発をしたと。こんなことでいいのだろうか。
そうか、これが「月光政策」なのか…。金大中政府の太陽政策を批判するハンナラ党を見て、全斗煥元大統領が言った。「そんなに太陽政策がいやなら月光政策でもしてみろ」と。だから出てきたのか。日が沈み、月が出た。妙な風が吹き、オオカミが遠吠えしている。再び蘇った冷戦の追憶よ。
「冷戦の追憶」という題で文章を書かなければという思いは、ずいぶん前からあった。分断の歳月は過ぎていくが、分断の現実を忘れつつある若者たちに言ってやりたかった。南と北が出会い、戦い、和解し、協力する分断の風景を。愚かしくも悲しい追憶について伝えたかった。ところがある瞬間から、どこかで見たことがあるような風景が現実になった。李明博政府になってから、このコラムが過去の歴史ではなく、現在の政治になってしまった。
誹謗と中傷が再び登場し、北朝鮮崩壊論や吸収統一論が公に語られるようになった。金泳三政府のときにうんざりするほど見た風景だ。ここで閑話休題。金泳三政権のときと李明博政府とを比較すれば、気分を害するだろう。金泳三大統領の左右衝突が結局、南北関係の「失われた5年」をもたらしたが、それでもその当事は穏健派と強硬派の路線葛藤などがあった。金泳三大統領の就任演説、「いかなる同盟も、民族に優先しえない」という発言を覚えているだろうか?そのような考えを持つ人々が初期に対北政策を担った。もちろん長続きはせず、強硬派に追いやられてしまったが。そして金泳三政府は世論を重視した。しかし、あまりに早急に世論に反応したため、冷水と熱湯を頻繁に出たり入ったりした。
その点、李明博政府は一心不乱だ。強硬派が闊歩し、残りは魂が抜けた状態だ。ほんの2年前に保守野党の「一方的支援」扇動を一々批判していた統一部が当事作成した文献が、今もインターネット空間に残っているが、今では口を閉ざしている。ハト派はいない。「金泳三にも劣る…」、なんて言えばひどい中傷になるのだろうか。
泳三のときは路線葛藤などもあったのに…
北朝鮮政府をめぐる過剰対応も同じようなものだ。「金正日委員行が歯磨きできるほどに回復した」と言う青瓦台関係者を見ていると、おそらく「魔法の鏡」でも持っているのではないかと思う。後継者問題に関する各種の「小説」も同じだ。対話が終わると、相手のことが気になる。無責任な好奇心とでも言うべきか?対北「政策」というよりは、対北「情報」があふれているということは、確実に対話が中断したときに現れる一般的な現象だ。相手を考慮しなくてもよく、推測と諜報を公に騒ぎ立てても負担にならないと判断しているからだ。
»2004年10月20日、開城工業地区管理委員会の開所式と、模範団地への進出企業の工場着工式に参加した南北の人々が「共存共栄」の最初のシャベルを入れている。写真/写真共同取材団
冷戦の追憶は、残酷な悲しみの風景でもある。李明博政府になって、離散家族の再会が中断した。今日も大韓赤十字社に離散家族再会申請をした年老いた人々が、「この世での最後の願い」を叶えられないまま、あの世に旅立っている。2008年だけでも2184人が離散の痛みを抱えて息を引き取った。2009年1月末現在、12万7356人の申請者のうち、すでに故人となった人が3万8926人だ。過酷で無情な現実だ。金剛山観光でもできれば、遠い場所からでも切なさを癒すことができるのに、それさえもできないでいる。
北朝鮮となぜ対話しなければならないのかと問われれば、迷わず答えることができる。離散家族の再会のためだ。分断以降、1971年の初の南北の出会いは、離散家族の再会のための赤十字会談だった。1985年に初めて離散家族の故郷訪問が行われた。そしてまた長い歳月が流れ、2000年の南北首脳会談を終えた後に定例的な離散家族再会が行われるようになった。この10年の対北政策をどう評価するのかと問われれば、迷わず離散家族の再会規模を提示するだろう。2000年から2007年までの南北離散家族の再会事業は、対面再会16回、画像再会7回など、1万9660人の再会が実現した。李明博政府は、果たして任期中に離散家族の再会を成し遂げることができるのだろうか?
再会できず、目を閉じる離散家族
開城に現代牙山の職員、ユ某さんが抑留されてからも100日が過ぎた。北朝鮮を糾弾する決起大会は、十分にできる。しかし、国民の生命と安全の責任を担う政府であれば、ユさんを連れ戻すのに最大限の努力をするべきだ。この10年間、南北接触の現場で多くの出来事があった。事件や事故も絶えなかった。しかし結局は解決した。南北の対話が実現すれば、問題を解決できる。李明博政府は今までユさんを釈放させるために、どのような努力をしたのだろうか?デモをするかのように拡声器を手に示威するのではなく、一体どんな努力をしたのかを問い質したい。
北朝鮮の人権問題もそうだ。北朝鮮の人権が改善されるべきだと思う。問題はその方法だ。例えば、国軍捕虜と拉致問題を見てみよう。それでも前政権の10年間は十分ではなかったものの、南北の合意文書でこの問題を解決するための努力をしていくことを明確にし、一部は「特殊離散家族」の範疇に入れて生存確認や再会をした。李明博政府はこれまで、この問題の解決のために何をしたのか?任期終了までに北朝鮮の人権問題改善の実績が、過去の政権よりもましになるのだろうか?
»「分断の壁を越えて」。2007年10月2日午前、盧武鉉大統領夫妻が史上初めて軍事分界線を徒歩で越え、第2次南北首脳会談が開かれる平壌に向かっている。写真/青瓦台写真記者団
李明博政府になって一番悔しい思いをしているのは、おそらく中小企業の経営者たちだ。開城工業団地の中小企業は、今日も不安な一日を過ごしている。南北の政治・軍事的対決のスケープゴートになってしまったからだ。どれほど苦労してここまで来たのだろうか?1990年代初頭、韓国内で競争力を失った履物、繊維、縫製、機械製作業者は中国、東南アジアに進出した。安い人件費を求めてだ。だが月日が流れ、これらの国家で産業構造が高度化し、競争力を失った。労働集約産業にどんな技術競争力があるというのか。人件費は高くなるばかりで、現地企業の追撃も激しく、結局は失敗してしまった。誰だって対北事業が危険だということを知っている。南北関係に多大な影響を受けるということを知らないわけではない。だが他の代案がないのに、どこへ行けというのか。
7万5000人の雇用はどうしろと
今のような不安な情勢で、開城で耐えられるのか?筆者が出会ったある中小企業の経営者はこう言った。「政府が補償をしてくれるかもわからないが、補償をしてくれたところで、それで飲食店をするわけにもいかないし…」開城から撤収すれば行く場所がないそうだ。李明博政府の人々は、この事実を知るべきだ。現在、開城に進出している企業は106に過ぎないが、その関連企業は国内で2600にもなるという事実だ。原資材や部品をすべて南側から持ってこなければならないため、それだけ関連産業が包括的だ。関連企業の主張によると、南側に散在している関連企業をすべて含めば7万5000人の雇用になるそうだ。決して少なくない規模だ。さらに重要なことは、開城を見守る中小企業の希望だ。
現代牙山の人々のことを考えるだけでも胸が痛む。どうやってこの歳月を生きてきたのか。金剛山のこの11年の歳月は、決して平坦ではなかった。あらゆる波風をくぐり抜けてここまで来た。金剛山を訪れた離散家族の切なさを共に感じ、学生たちと共に統一の夢を見た。もう1年になるのか?金剛山に流れる寂寞よ。現代牙山の家族の涙よ。
去年までは政府に提言をした。その道を進んではならないと。今はむしろ「そのまま進め」、そう考える人が増えているようだ。「月光政策」も教訓になるだろう。反面教師とでも言うべきか?だが線路は錆びつき、金剛山へ行く道には雑草が生い茂り、離散家族の心は引き裂かれ、中小企業は絶望するだろう。残念ながらこれが冷戦の現実だ。再び蘇った冷戦の追憶よ。
キム・ヨンチョル/ハンギョレ平和研究所長
*7・7宣言 1988年7月7日に盧泰愚大統領が発表した宣言。 この年の春から在野団体や学生層を中心に統一論議が拡散し、6・10南北青年学生会談の強行で学生と警察が衝突するなどの統一運動の気運が過熱するなか、盧泰愚が北朝鮮、中国、ソ連に対する開放政策を表明する6項目の対北政策を発表した。 ここで盧泰愚は自主、平和、民主、福祉の原則に立脚し、民族構成員全体が参加する社会、文化、経済、政治共同体を作り上げることで、民族自存と統一繁栄の新時代を開いていくとした。
韓国で「アカ」はどう作られたのか
『ル・モンド・ディプロマティーク韓国版』
[10号]2009年07月03日(金)11:46:44
キム・ドクジュン|国史編纂委員会韓国現代史
韓国社会で「左翼」の烙印を押されることは、政治的・社会的な死刑宣告と同じだ。この用語が使われたその瞬間から主張の正当性は一挙に剥奪され、対象者は沈黙に押し込められる。
2002年、新千年民主党の大統領選挙予備選。李仁済(イ・インジェ)候補が盧武鉉候補の義父(岳父)のパルチザン活動を攻撃した。政治の世界で常に使われてきた「色攻勢」であり、このような攻撃は常に相手側を守勢に追いやった。これに対して盧武鉉候補は「ならば愛する私の妻を捨てろということか」、「そうなれば候補を辞退する」と反撃した。この発言で戦局は逆転し、李仁済候補は結局、大統領になるという夢をあきらめなければならなかった。
麗水・順天事件で子供を亡くし、嗚咽する家族。背後に立っている人物は米臨時軍事顧問団員のラルフ・ブリス(Ralph P. Bliss)少佐。米臨時軍事顧問団は麗水・順天事件の鎮圧作戦を指揮した。
なぜこの発言が人々の心を動かし、盧武鉉を支持させたのか?盧武鉉は岳父の左翼活動を弁護したわけでもなく、自分に対する攻撃が根拠のない色彩論であるとも主張しなかった。しかし、彼の短い答弁は、政治の世界で横行していた色彩論攻撃を無力にした。
盧武鉉は韓国現代史で「左翼」と「アカ」のイメージがどのように形成されたのかは知らなかったであろうが、結果的に彼の発言は左翼攻撃の論理のもっとも弱い部分を掘り下げた。盧武鉉の答弁は「左翼も結局は人間」であることを主張したからだ。
韓国社会で左翼勢力はあらゆる社会の混乱の原因であり、暴力的で非人間的な存在として扱われる。「アカ」はこのような意味を持つ蔑視的な用語だ。このようなイメージと認識は、どのような歴史的過程を経て作られたのだろうか?
殺してもよい存在の「アカ」
まず「共産主義者」(社会主義者)と「アカ」は、まったく違う属性と脈絡、イメージで使われる用語であり、この用語は韓国現代史の流れとかみ合っているという点に留意する必要がある。日帝の植民地時代に共産主義者は独立を一番先頭に立って求める者であり、解放直後も共産主義者は進歩的政策を求める人々として扱われた。このときまで共産主義者は、右翼勢力の政治的競争者に過ぎなかった。
韓国で「アカ」のイメージが作られた解剖学的過程を追跡したときに出くわす決定的な事件は、「麗水・順天事件
*」だ。1948年10月19日、大韓民国政府の樹立から2ヵ月後に麗水駐屯の国軍14連隊が「済州島討伐出動反対」を叫んで蜂起したこの事件は、軍人の蜂起に呼応した地元の左翼勢力・学生・住民たちが合流しながら「大衆蜂起」へと発展した。
麗水・順天事件は蜂起と政府による鎮圧の過程で、数多くの軍人・警察や民間人が死んだ流血事件だった。鎮圧軍は各地域を占領した後、住民たちを国民学校の運動場に集め、協力者の捜索を始めた。右翼や警察にマークされた地元の住民たちは、裁判も経ずに即決処刑された。
当事の状況についてある証言者は「そこは完全に地獄でした。カービン銃で撃ち殺されたんです。座っている者の中から反乱軍の協力者を指名させて、その人を横に連れ出して撃ち殺しました。マークされた人は容赦なく人々の前で撃たれたんです」と話した。
その地域で尊敬されていた中学校の校長、地方検事などは蜂起軍を避けて隠れていたにもかかわらず、共産主義者の烙印を押されて殺された。ある国会議員は人民裁判に参加したという濡れ衣を着せられたが、どうにか脱出して命拾いをした。
14連隊の軍人の蜂起で死んだ人よりも、政府軍による鎮圧の過程で死んだ人の方がはるかに多かったことなど、この事件の実情はちゃんと伝わっていないまま、むしろ事実とは正反対に報道された。
政府は被害者のほとんどが左翼により殺されたのであり、左翼を「殺人魔」だと宣伝した。当事の新聞は政府の報道資料を何ら批判せずに誠実に紙面に書き写した。特に新聞に載せられた写真は、左翼による住民虐殺を生々しく伝え、全国民が左翼の蛮行に共感するようにした。事件が鎮圧された後、麗水・順天を訪れた文人や宗教人たちも、共産主義者たちが残酷な虐殺を行った、獣よりも劣る存在であり、「悪魔」であり、「非人間」であると主張した。「アカ」という単語は、政府・言論・文人・宗教界の知識がすべて網羅され、形成された談論の凝結体だった。
このような過程を通じて「アカ」という単語から理念的要素が抜けた代わりに、「流血」と「非人間」のイメージが鮮明に刻印された。政治的競争者である「共産主義者」から、殺してもいい存在である「アカ」への転換、アカを血のにじんだ暴力的存在として形象化した契機は、他でもない麗水・順天事件だった。「アカ」という用語は道徳的に破綻した非人間的な存在、獣よりも劣る存在、国民と民族を裏切った存在を汚く罵る用語となった。そのため、共産主義者はどのような非難をしても感受しなければならない存在、殺されても当然の存在、誰でも殺してもいい存在、殺されたところで抗弁できない存在となった。
反共主義が圧倒的なイデオロギーとしての位置を確保し、国家保安法や反共法が存在する状況で、政府が生産した麗水・順天事件に対する公式的な歴史は、一度も対抗する者がいなかった。映画、写真や報道、教科書、冊子などを通じて麗水・順天事件に対する反共主義的な解釈は、60年間、一方的に流通し、繰り返し再生産された。
『光復30年-麗水・順天反乱編』(全南日報社1975)は、左翼勢力が住民を残酷に殺害した事例を詳細に描写している文献の一つだ。維新体制下で発行されたこの本は、「右翼に踊るのではないかと思われるほど右翼側に行くしかなかった」として、情報関係者たちは「生きている反共教科書」と呼んだ。
麗水・順天で殺された人々や遺族は、なぜ自分が死ななければならなかったのか、なぜ自分がアカとされたのかを知ることはできなかった。自分の歴史を理解できず、説明できなかったことは、ただ殺された人々のみに当てはまることではない。アカがどのように作られ、どのように機能したのか、理念的対立と認識した左右対立の底には、どのような政治工学が作動しているのかを韓国現代史の研究は説明できなかった。
反共体制を誕生させた麗水・順天事件
麗水・順天事件は分断政府の樹立と国家建設過程の重要な性格を示す「隠された」基盤であり、大韓民国の反共体制を誕生させた韓国現代史の核心的事件だ。麗水・順天事件は韓国の「国家建設」の過程と性格、韓国民主主義と「政治」の性格、韓国社会にこれまで存在し、今も存在している「暴力」の秘密を表わしている。
麗水・順天事件の協力者の捜索は、国家暴力を通じた「組分け」がどのように行われるのか、敵と規定された人がどのように処理されるのかを見せつけた。協力者の捜索過程と大量の虐殺は、誰が「民族」と「国民」として認められるかを試す民族構成員の資格審査過程だった。反乱軍だけでなく、「反乱主体として見なされた者=協力者」は「アカ」と見なされ、国民として認められず、殺されなければならない存在であり、国家建設から根を抜かれなければならない雑草のような存在として扱われた。
外国の場合も「アカ」(赤)、「コミ」(commie)など共産主義者をけなす意味が内包された用語があるが、「アカ」のように殺さなければならない対象、非人間的な存在を称するものではない。韓国の「アカ」という用語は、世界の反共主義の歴史でもっとも露骨な敵対観を表示する用語だと言える。
なぜ大韓民国は極端な反共主義国家になったのだろうか?分断政権という弱点を持つ李承晩政権は、共産主義者が政権を妥当しかねないという恐れ、これに同調した大衆に対する恐怖、そして抵抗可能性を封鎖しなければならないという圧迫を強く感じていた。大衆は「味方」でなければ「敵」だという克明なニ分法的認識は、蜂起地域の住民全体を敵に育て上げた。
政府鎮圧軍に殺された人々のすべてが共産主義者だったわけではない。麗水・順天事件で軍警に虐殺された人々は、「共産主義者だから殺されたのではなく、死んだ後で共産主義者になった」のだ。
国家暴力と粛清は、大衆の抵抗可能性を先制的に除去する大衆への抑圧につながった。暴力の対象は、公式的に設定された外部の敵(共産主義集団である北朝鮮)ではなく、内部の大衆に拡大した。このような側面で李承晩政権の反共主義は、共産主義者を狙っているというよりは、抵抗の可能性がある大衆を相手にしていた。そのため、反共体制がある程度完成し、左翼勢力が消えたかのように見えるときも、アカは作られつづけた。
大衆に対する暴力に始まった反共主義は、国家保安法など法制的政治と各種の半官半民団体を中心に、住民の生活を隅々まで統制する社会組織化を通じて徐々に姿を形成していった。こうして大韓民国の居住者は「反共国民」として誕生し、「反共道徳」と愛国心を胸の奥に深く刻んだ。
どのような社会であれ、ある理念に対して肯定的、あるいは否定的な態度をとることができる。このような議論が活発になるほど、社会は民主的に熟成し、発展の可能性を探索できる機会をより多く持つことになる。しかし、韓国の反共主義は理念によって形成されなかった。反共主義は「共産主義に反対する」ということ以外には、その中にどのような特定の理念もない空虚な響きであり、その空虚さを強要するために軍警による露骨な国家暴力が使われた。反共主義は政治の核心を「敵」と「味方」の区別で見る認識に基礎を置いているため、統合よりも排除の政治を駆使した。その論理的結末は、大衆運動の抑圧、民主的過程に対する無視、戦争を辞さないことや相手に対する破壊と全滅だった。
麗水・順天事件で最初に始まった国家暴力は、4月革命、1980年の光州民衆抗争など、韓国現代史で周期的にその姿が再現された。歴史から学べず、変えられなかったからだ。
「左アカ」という暴力的言語の横行
反共主義の否定的遺産を眺めることは、「自分たち自身」を省察する作業でもある。大韓民国の国民は、麗水・順天事件という国家暴力の事例の中で生まれ、暴力の論理は政治の過程に内蔵された。大韓民国の形成過程で暴力に慣れ、体で受け止めた国民が、国家の外部にいると見なされる他者に暴力を駆使することは不可能なことではない。政治過程で敵対と暴力を日常的に経験した大韓民国の「国民」が姿を変える道を模索するには、反共主義が残した遺産を繰り返し観察する必要がある。
今もインターネットでは「左アカ」(左翼のアカ)という用語が横行している。味方と敵を鮮明に区分しながら一切のコミュニケーションを拒むこの用語は、どれだけ暴力的な過程を通じて誕生したのだろうか?しかし、大韓民国はまだ自分の歴史に対して無感覚だ。60年前の麗水・順天事件が残した遺産は、未だに克服されていない。
文章=キム・ドクジュン
国史編纂委員会の編史研究者として在職中であり、韓国ジェノサイド研究会の運営委員長を務めている。共著として『死して国を守ろう』(ソンイン2007)があり、最近では『「アカ」の誕生-麗水・順天事件と反共国家の形成』(ソンイン2009)を出版した。
* 1948年10月19日、全羅南道の麗水に駐屯していた国防警備隊第14連隊に所属する一部の軍人が起こした事件。麗水14連隊反乱事件、麗水・順天蜂起、麗水・順天抗争、麗水・順天軍乱とも呼ぶ。済州4・3事件と共に解放政局の渦の中で、左翼と右翼の対立によりもたらされた民族史の悲劇的事件。李承晩政府はこの事件を契機に国家保安法を制定し、強力な反共国家を構築した。よく麗水・順天反乱事件と言われたが、該当地域の住民が反乱の主体だと誤認する余地があるとして、1995年からは「麗水・順天事件」あるいは「麗水・順天10・19事件」が使われるようになった。