ここのところ朝鮮半島で大きなニュースが立て続けにあったので、報道番組でも隅に追いやられている感がありますが、韓国でも新型インフルエンザの患者数がジワジワと増えているそうです。昨日のニュースで二十数人だったかな?三十人越えたんだっけ?
でもね、みんな外国帰りの韓国人だったり、アメリカとかカナダとかの外国から韓国に英語講師として来た外国人だったりします。その英語講師が教えている語学学校は大丈夫なのか?という憂慮はあるものの、日本のように「患者の名前と住所を公開しろ!」と
キイキイ言ったりとか、魔女狩りみたいなヒステリーはありません(まあ、今それどころじゃないってのも大いにありますけどね)。
でも韓国内での感染の広がりはまだ見られないのよね。やっぱりSARS(観光や貿易は大打撃を受けたものの、韓国では患者が出ませんでした)のときと同じように、韓国人はキムチをたくさん食べるからインフルエンザにかからないのかしら。
日本の都市部の映像で、歩いている人全員がマスクをしているのを見て「いったいどこのSF~?」「近未来映画~?」と思ってしまいます。それにマスクって、予防のためじゃなくて、他の人に感染させないようにするもんらしいじゃないですか。症状がない人がマスクしても意味ないらしいですよ。
新型インフル マスク過信禁物 症状ない人には予防効果なし
(5月24日9時35分配信 琉球新報)
日本のみなさん、マスクを買いに行く前にキムチでも食いましょう。
私はキムチ業界の回し者ではありませんが、実際にニンニクやとうがらしや乳酸菌を多く含むキムチを常食している韓国ではインフルエンザが広がってないんですってば。こんだけ空気が乾燥してて、人口密度が高くて、ソウルの朝なんて東京や大阪なんて目じゃないぜっつーくらい通勤ラッシュがひどいのに。
あぁ、そいや、飛行機でインフルエンザ患者の近くの席に座ってただけの人が
『濃厚接触者』って、いったいどういう日本語なんでしょう?
『濃厚接触』というと、おヒザの上になんか乗って
「はい、あ~ん」とか
「うふん」とか
「あはん」とかってやってそうなイメージなんですけど、単に近くの席にいたっていうだけですよね!?いや~、ニホンゴ ムツカシネ~
では、こちら、ハンギョレの東京特派員が書いた2009年05月26日の記事です。どうぞ。
[特派員フォーカス]日本人はマスクマン?
年間消費量20億枚
「周囲へ配慮」する特性を反映
»日本人はマスクマン?
新型インフルエンザが東京に上陸したというニュースが伝えられた21日朝、日本にある韓国企業の駐在員の夫人、キム・ハヨン(49)さんはマスクの波があふれるテレビを見て不安になり「日本式防疫態勢」構築に立ち上がった。しかし近所のスーパーや薬局を5~6件回ったが、ムダ骨だった。どこも品切れだったのだ。数日後、知人を通じてようやくマスク1個を手に入れた。しかし彼女は「手に入れてからも息苦しいからか、ちゃんと着用しなくなった」と話した。
新型インフルエンザの感染者が大量に発生した神戸、大阪などの関西地方はもちろん、東京都内のどこに行っても最近は白いマスクであふれている。アメリカやヨーロッパ、韓国などでも新型インフルエンザの感染が頻発しているが、このような現象はなかなか見ることができない。「マスクでは健康な人の予防効果を期待できない」というのが公衆保健専門家たちの常識だ。しかし、日本人の「マスク信仰」はそれだけ際立った点がある。
日本衛生材料工業連合会(日衛生)の統計を見ると、日本の年間マスク消費量は実に20億枚だ。3月末現在、約1億個を越えていたマスクの在庫も底をついた。一部のマスク業者は、ゴールデンウィークも返上して24時間工場をフル稼働し、特需を享受している。
日本には1910年代に粉塵防止工業用マスクが初めて登場した。1919年のスペイン風邪の大流行は、マスクブームに火をつけた。当時の政府は「マスクをつけなければ死ぬ」という殺伐とした啓蒙活動を展開した。しかし、マスクの価格は今のお金に換算すると3000円という高額であったため、庶民たちは買う気になれなかったそうだ。1990年代になると、使い捨てマスクも普遍化した。最近の花粉症、鳥インフルエンザ、重症急性呼吸器症候群(SARS)の大流行も「マスク着用の生活化」を定着させた。
「清潔なことを好み」「周囲に気を配る」日本人の特性も、マスク信仰を説明するのに欠かせない。1970年代に、あるアメリカの生命保険会社が日本市場に進出したことも、日本人の並外れたマスク信仰の契機になったというエピソードがある。調査のために日本に来たこの生命保険会社の社長は、多くの日本人がマスクをしていることに驚き、「これほど予防意識が高い国なら保険もよく売れるだろう」と判断したそうだ。
東京/キム・ドヒョン特派員
武装闘争を反省し、「再武装」反対
「平和憲法を守る」ために立ち上がった元赤軍派議長、塩見孝也
六十路で駐車場管理、初めての肉体労働
金融危機を目の当たりにして「革命」を夢見る

今月3日の夜7時30分頃、東京渋谷駅近くの宮下公園。レイブ音楽がにぎやかで楽しい
メーデーデモの行進を終え、後夜祭をしている若い非正規職労働者たちの中に、白髪交じりの60代後半の老人が目に付いた。
「9条改憲阻止」という赤いタスキをかけていた。近づいて声をかけてみると、見たことのある顔だった。去年の同じくメーデーの行事で、彼が客席にいた20代の若者から「今は武装闘争はしないのか」と揶揄されていた場面を思い出した。
1969年に「共産主義者同盟赤軍派」(赤軍派)を結成し、「武装放棄による世界共産主義革命を実践すべき」と主唱して派出所連続襲撃事件、首相官邸を襲撃するための軍事訓練などを主導した塩見孝也(68/写真)元赤軍派議長だ。彼は70年3月31日、赤軍派グループのよど号ハイジャック事件決行直前に逮捕され、この事件の共同正犯などで起訴されて19年9ヶ月間刑務所暮らしをした後に1989年19月に出所した。
かつて日本のレーニンと呼ばれ、武装闘争も辞さなかった彼が平和憲法を守る側になった契機は何だったのだろうか?
「過去の武装闘争路線に対する反省」と「大衆と共にする運動」という答えが返ってきた。
「戦争否定と交戦権の放棄を唱えた日本国憲法9条は、日米安保同盟により共同化されているため、原状回復されなければならない。若い頃、資本主義を打倒しようとするあまり武装闘争を展開したが、今はこれを反省している。もっと民主主義的に外回りを拡大し、労働運動と結合しなければならない。
彼は自分が属している「9条改憲阻止の会」のメンバーと共に毎年、非正規職メーデーデモ行事に参加している。最近の若者たちの軽快なデモにまったく違和感がないと言う。
「今の日本社会がいいとは思わないが、三十数年前に比べて成熟したことだけは事実だ。だから暴力よりは倫理や道徳問題がより重視される。機動隊と衝突するよりも非暴力的な方法で感性的にアピールする方がいい」
しかし、彼は1972年に軍事訓練過程で「共産主義化」という名目で仲間14人を殺害し、学生運動を壊滅状態に追いやった「連合赤軍事件」については直接責任がないと主張した。
昨年、反体制的な性向を持つ若松孝二監督がつくったドキュメンタリー映画『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』が、当時の事件の実像を初めて内在的にアプローチし、赤裸々に描いて日本社会で大きな反響を起こした。
「当時、私は刑務所にいたため、連合赤軍事件とはまったく関係がない。お互いに路線が違う中国毛沢東主義者(革命左派)とトロツキー主義者(赤軍派の一部勢力)が我々(連合赤軍指導部)に隠れて野合し、新党を立ち上げた。粛清を肯定するグループの影響を受けてああなったのだ。ちょっとした違いも認めない日本の左派の悪い伝統も作用したと思う。銃を手にするにしても、仲間の殺害に至るという考えは絶対に認めることができない」
京都大学に入学して学生運動に身を投じて以来、40年以上、講演料、夫人の内助、仲間の支援で生計を立ててきた彼は、66歳になって肉体労働を始めた。
2007年12月以降、自分が住んでいる町内で時給1000円の駐車場管理人として1年5ヶ月、働いている。「60を越えた年で、労働者として生きていくことに対して自信を持つようになった。これまで“指導者”然として他の人から支援されて生きてきたが、私が民衆の暮らしをどれだけ知らなかったかがわかった」
40歳の一人息子も、父親が初めて額に汗して働く姿を見て喜んでいるそうだ。昨年、『週刊新潮』や『産経新聞』などの右派メディアは、往年の闘士の変身を大々的に報道したりもした。
しかし、彼は依然として「革命の夢」を捨てられないようだった。
「今の金融恐慌は過剰生産による構造的なものであるため、最低10年は続くだろう。それまで世界はもっと激動的に動いていく。それならば世界革命の可能性がないわけではないと思う。その時に備えて主体をどうするかが重要だ。
【東京】文章/キム・ドヒョン特派員
写真/ファン・ジャヘ『ハンギョレ21』専門委員
日本版88万ウォン世代・非正規職、彼らが共産党員になったわけ
[ハンギョレ21周年創刊特集]
製造業まで派遣職許容、「終身雇用喪失」
年収200万円以下の「ワーキングプア」1000万人
共産党、草の根組織改編、街頭労働相談
»日本共産党と傘下の青年組織である民主青年同盟が先月29日、東京新宿で開催した「街頭生活・労働相談」。単純な党の広報活動ではなく、非正規職など解雇の狂風に苦しむ社会的弱者に実質的な支援をするための活動を標榜した。
進歩の道を求めて/日本共産党の復活
元自衛隊員のサヤマ・カツノブ(60/仮名)は昨年10月、日本共産党に入党した。父親の影響で、選挙のたびに与党自民党に投票していた彼が自民党と正反対にある政党に入党したのは、失職がきっかけとなったからだった。1969年から1980年まで11年間自衛隊で働いた彼は昨年、キッチンや家具のリサイクル業者で2ヶ月間パートタイムで清掃の仕事をしていたが、解雇された。自衛隊退職以降、印刷会社で長期間働き、その後はいろいろな非正規職の仕事を転々としてきた彼の手元には、3万円しか残っていなかった。1日の生活費を500円に切り詰め、毎日自転車に乗って仕事を探したが、60歳の彼にとってパートタイムの仕事を見つけることすら簡単ではなかった。このとき、日本共産党の機関紙『赤旗』を購読している近所の人が、共産党に相談してみるように勧めた。
サヤマの困窮した事情を聞いた千葉県流山市の日本共産党所属の徳増記代子(58)市議は、すぐにサヤマと一緒に市議会に行き、生活保護を申請した。44歳のときに3回も生活保護の申請をしたものの拒否された経験のある彼は、半信半疑だった。しかし、毎月きっちり7万円の生活保護を受けられることになった彼は、「変な人たちが集まった集団」だと思っていた共産党に対するイメージが一変した。
先月26日、共産党千葉県流山市東部支部の日曜会で『ハンギョレ』の取材に応じたサヤマは、「社会の底辺にいる弱者を助けるために共産党に入った。入ってみると、人々がとても親切で、わからないこともいろいろ教えてくれる」と微笑を見せた。愛する人がいたが一定の収入がなくて結婚もできず、長い間不安定な生活のために軽度のうつ病にまでなったという彼は、この日の会議では始終活気的で、時折ユーモアまで飛ばすなど穏やかな様子だった。この日の会議では、創価学会を母体にした公明党の党員だった60代の女性、70歳のときに入党した一人身の老人など、他の新人入党者たちも参加していた。
55歳、ウスイ
解雇されたが、党の支援で就職
「非正規職の労働条件を変えよう」
共産党に入党し、覚悟を決めた
資本主義体制が高度に発達した世界2位の経済大国日本で、この1~2年の間にサヤマのように共産党の門をたたく人が増えている。2007年9月以降、毎月約1000人ずつ新規党員が増え、1万8000人が新たに入党した。党員の増加速度が以前の2倍になった。特に20代~30代前半の若い入党者が以前は10%程度だったが、今は20~30%を占めるほど大幅に増えたそうだ。
志位和夫共産党委員長が昨年、衆議院対政府質疑で派遣労働者のむちゃくちゃな解雇を非難する動画を見たり、インターネットで党の綱領を見て自発的に入党するという前例のないケースも増えている。昨年11月だけでも52人の若者がそのようにして入党した。若い共産党員の増加の背景には、終身雇用を誇っていた日本社会が、いつの間にか「雇用不安と隠れた貧困大国」に転落した現実がある。共産党員作家、小林多喜二が70年前に発表したプロレタリア小説『蟹工船』が、昨年50万冊以上売れる大ヒットを記録したことも、共産党ブームに火をつけた。非正規労働者にとっては、70年前の小説の中の過酷な労働環境が現代日本の自分の話のように押し寄せたためだ。
2002年、自民党政権が労働者派遣法を改定し、製造業まで派遣職を許容するなど、新自由主義式構造改革を断行した結果、非正規職が35%に増えて主要国家のうちもっとも高い数値を打ち出している。若者の2人に1人は非正規職を転々としている。「日本版
88万ウォン世代」である非正規職の量産は、貧困の拡散という悪循環を生んでいる。同じ仕事をしても正規職の給与の50~60%にしかならない非正規職労働者が年間収入200万円以下の1000万人の「ワーキングプア」の大多数を占めている。
昨年下半期から吹き荒れた世界金融危機と景気不況は、これらの非正規職労働者にとっては泣きっ面に蜂となった。トヨタなど日本の大企業製造業がこの5~6年間の好況期に、社内保有金を数兆~12兆円ずつ2倍近く増やしながらも、不況を口実にして待っていたかのように派遣社員など非正規職を手当たり次第に解雇しはじめたのだ。これらの大部分は雇用保険にも入れず、失職と同時に貧困層に転落した。解雇に伴って会社の寮からも追い出され、路上で生活するようになったケースも多い。今年の6月までの間に、非正規職解雇の狂風に無防備にさらされた20万~40万人が解雇されるという統計も出ている。
粗末なセーフティネットからはじき飛ばされた彼らにとって、日本共産党は現代版「かけこみ寺」だった。
自動車部品工場で時給1000円の派遣職として働き、昨年1月に解雇されたウスイ・トコミ(55/仮名)は、2か月分の生活費しかない状態だった。解雇後、家に引きこもって生活していた彼は今年の1月、社長が共産党員で、職員の相当数も共産党員の病院の清掃会社に就職した。これを契機に彼は非正規職の労働条件を変えなければならないと考え、3月に共産党に入党した。
1922年の結成以降、長い命脈を維持してきたが、党員40万人余りの大部分が50~70代の中高年層だった日本共産党としては、最近「若い血」の輸血で新しい活路を見出したことに奮い立った表情を隠せずにいる。
22歳、アサノ
自動車部品工場を追い出されて
党と相談し、解雇撤回闘争
「私のような弱者の味方なので入党」
アサノ・キクコ(22歳/仮名/女)も共産党が最近確保した「若い血」の一人だ。高校卒業後、4年近く働いた自動車精密部品工場から3月25日に一方的に解雇された。1月に共産党が主催した街頭労働相談で知り合った阿部真・東京都議の支援を受けて会社を相手に解雇撤回闘争をしている。他で就職することが難しい不況下で、13万円という限りなく少額な退職金だけでは食べていくことも大変な状況だ。彼女は2月に「共産党は私のような社会的弱者をちゃんと応援してくれる」と感じて入党した。「私の話を真摯に聞いてくれた点」が彼女の心を動かした。当初、政治に関心もなく、選挙のときは投票所で適当に候補者の名前を書いたという彼女は、入党後「労働者や社会的弱者の役に立ちたい」と変わった姿を見せた。
先月29日、東京新宿で日本共産党と系列青年組織の「民主青年同盟」(民青)が共同主催した「街頭労働生活相談」キャンペーンは、社会的弱者との接点を拡大しようとしている共産党の典型的な活動だ。昨年11月、建築会社から追い出され、公園で野宿生活をしていた55歳の男性はこの日に相談を受け、共産党都議員の支援で翌日生活保護申請をした。
19歳のときに結婚し、22歳のときに離婚して2人の子供を育てているシングルマザー、スマノ・ヨウコ(41)にとって日本共産党は「困った人を一番よく考える政党」だ。また、「国家の政党補助金や企業献金もまったく受け取らず、もっぱら党費のみで運営する清潔な政党」と思い、最近になって入党した。
日本共産党は地域組織強化に力点を置き、草の根政党のイメージを強化したことも党勢拡張につながったと自己評価している。日本共産党は2007年7月の参議院選挙で民主党の圧勝に押され、議席数が9議席から7議席に減少したショックから、地域密着活動に総力を注いできた。全国2万2000余りの支部と3000人余りの地方議員たちが地域住民たちが皮膚で感じている問題を提起し、解決のために努力する姿を見せながら共産党に対する拒否感を薄めている。この結果、4月の地方選挙で日本共産党は議席を9議席も増やし、2007年参議院選挙にくらべて得票数も50%近く拡大するなど、躍進したことが明らかになった。
ウエキ・トシオ共産党広報部調は「共産主義を目標にしているからといって、一挙に共産主義にしようというのではなく、規則のある資本主義、つまり規則がある経済社会を実現しようというのが我々の目標」だとし、「これこそ国民が共産党に安心感を持ち、共感の幅を広げる大きな要因」だと語った。日本共産党は2004年1月の第23次党大会で党綱領を大々的に改正し、革命政府樹立目標を放棄して民主連合政府による議会主義路線を明らかにした。共産主義革命や一党独裁が連想されやすい共産党のイメージを脱皮し、西欧の社会民主主義路線に近いとの評価を受けた。過去には「民主集中」という名で各支部に現地の実情を無視した上意下達式の指示を下していたが、現在は各地域の自治権を相当部分認めているそうだ。
しかし、共産党党員の増加が国会議員選挙での躍進につながるかは未知数だ。日本共産党は今年の9月までに実施される衆議院選挙で650万票以上を獲得し、現在9議席の衆議院で議席を大幅に増やすことを目標にしている。しかし、現在の共産党の支持率は4~5%程度にとどまっている。ソ連崩壊など、社会主義体制の没落以降、革命路線を放棄した後にも日本国民の大半の共産党に対する距離感、あるいは拒否感は、依然として強い。最盛期だった1979年に衆参両議院を合わせて40議席を確保していたときに比べると、現在の衆参両議院の16議席という状況はあまりにもお粗末だ。政権交代の風が強まった場合、次の衆議院選挙で自民党対民主党の構図が強化され、浮動票が民主党に集まる可能性もある。地方選挙より国政選挙で共産党の得票力が落ちる点も悩みの種だ。地域の党関係者は「この地域の場合、地方選挙では有権者が共産党の政党名にそれほどこだわらずに投票するため1万票程度入るが、総選挙ではどうも共産党という看板が負担になるのか、票があまり集まらない」とこぼした。
ウエキ広報部長は「共産党は一党独裁のイメージがあるので、党名を変えようという人たちがいるのは事実」だとしながらも、「だが我々は共産主義の本質は一党独裁ではないと思っている。資本主義体制だけでは克服できない問題を解決するために共産党が多数派として他の政党と共に政府を構成しようということ」だと語った。
東京/キム・ドヒョン特派員
写真/ファン・ジャヘ『ハンギョレ21』専門委員
2009年05月14日
背伸びするオバマの対北政策/李鍾元
米オバマ政権が発足してから100日が経った。未曾有の経済危機に対する迅速な対処で、アメリカ国内でも評価点数が非常に高い。各種の調査で平均60%を上回る支持率を記録している。国際的にも就任直後からブッシュ政権の「力の外交」路線との決別を明確にすることで、変化したアメリカの姿を強く印象付けた。アメリカが「悪の枢軸」「不良国家」という烙印を押したイラン、キューバに続き、「反米の急先鋒」ウゴ・チャベス/ベネズエラ大統領とも和解の手を差しのべて握手をした。
この100日間、オバマ政権は山積みになった課題に対して強度の高い「速度戦」を展開した。高い支持率も具体的な成果があったからというよりは、果敢かつ敏捷な対応への期待感に起因する部分も大きい。複合的な危機をむしろチャンスに活用し、短期間に対内外の政策課題に対する基本的なアプローチ方法と考え方を相次いで変化させた手腕は驚異的だ。
電光石火のオバマ政権の対応のなかで唯一、後手に回っている分野は対北政策だ。「核実験と弾道ミサイル発射実験」を宣言しながら、手持ちのあらゆるカードを動員してアメリカを圧迫する北朝鮮に対し、有効な対応策を講じられないまま傍観しているかのような形だ。スティーブン・ボズワース北朝鮮問題担当特別代表が、中国経由で昨日ソウルへ来た。いずれ表面化する米朝交渉を含む多様な外交の行方を占うためにも、オバマの対北政策が慎重な姿勢を見せている理由を検討する必要がある。
第一は、今まで多く指摘されてきた通り、政策の優先順位の問題だ。経済危機への対応が最優先課題であることは今さら強調する必要もない。また、対外政策でもアフガニスタンやイラク、中東問題の方が事態が切迫している。先月23日にようやく、カート・キャンベル東アジア・太平洋担当国務次官補の任命が発表された。前のジョージ・ブッシュ政権の時に、ジェームズ・ケリー次官補が政権発足1ヶ月足らずで任命されたのとは対照的だ。
第二に、対北政策の全般的な再検討作業に一定の時間がかかることも事実だ。ブッシュ政権の時にも、対北政策の輪郭が発表されたのは政権発足から4ヶ月半が経過した6月初旬だった。オバマ政権の場合、北朝鮮の核問題の根本的な「解決」を志向する立場から、その政策検討はより多角的で包括的にならざるを得ない。窮極的な米朝関係正常化など、東北アジアの秩序再編を実行に移す具体的な政策構築には、かなりの時間が必要とされるのはもちろんだ。
オバマ政権は、この準備期間にボズワース代表の訪朝などで雰囲気を改善することによって、包括的な政策検討作業の推進力として活用する考えだったことが伝えられた。このような構想に冷水をかける北朝鮮の崖っぷち戦略が、単純に米朝交渉の戦略なのか、それとも核保有の既成事実化のための保有なのか、北朝鮮の真意と内部状況に対する疑念がオバマ政権内で検証されている。オバマ外交に関与しているヘンリー・キッシンジャー元国務長官が『ワシントン・ポスト』に寄稿した文(4月22日付)でも強調されたように、米朝交渉には関係正常化と核放棄という最終目標に対する相互信頼が重要な基盤だ。この土台が整わない場合、世界的な非核化推進を政権の中心課題としているオバマ政権としては関係改善の果敢な突破口を開くことは難しく、漂流し続けるしかない。徐々に姿を現したオバマ政権の対北政策に対して、北朝鮮も今まで強調してきた「戦略的決断」の具体化に応える必要がある。
李鍾元/立教大教授・国際政治
『ハンギョレ』 2009年05月08日