朝鮮・中央・東亜の「憎悪」-死んだ権力に噛み付くことで紙面を埋める
折り返して見た「盧前大統領報道」
検察が流した内容そのままで事実断定
誇張・推測拡大再生産-捜査チームも「誤報乱発」
盧前大統領側の反発、釈明に対しては「苦し紛れの弁明」

「人身攻撃性ジャーナリズム」
「基本的な事実の確認すらちゃんとしていない質の低いジャーナリズムの典型」
新聞や放送は、今年の4月から第1面などの主要紙面を使って集中的に検察の盧武鉉前大統領への捜査に関する記事を垂れ流した。しかし、実際に取材報道の基本原則をちゃんと守ったかは疑わしいという指摘が多い。
朝鮮・中央・東亜など一部メディアの報道は、「憎悪ジャーナリズム」に近かったというのが多くの言論学者たちの指摘だ。今回の事案を扱いながら、盧前大統領に憎悪に近い攻撃的態度を見せたということだ。
例えば、盧前大統領を破廉恥に描写する「人格虐殺」に近い記事をあげることができる。『中央日報』は4月11日付34面に掲載された自社論説委員であるチョン・ジンフンの記名コラム「花柳関文、金銭関文」で「(パク・ヨンチャが)金ではなく糞をばら撒いたとしたら…その糞を食べて自分の顔に塗りたくり、全身にかぶった人がかつてこの国の大統領であり、その妻であり、息子だった」と書いた。この新聞は5月1日付2面で、盧前大統領の釈明を「妻のしたことを夫は知らない、お粗末な三流ドラマ」だと嘲笑した。
『東亜日報』は4月11日付5面で「600万ドルの男、完ショー男(完全にショーをする男)、賄賂鉉、盧グラ(ウソ)など、盧前大統領を批判する新造語があふれている」と伝えた。『朝鮮日報』のキム・デジュン顧問は4月27日付30面のコラムで人身攻撃的な表現で盧前大統領を攻撃した。彼はこのコラムで「盧武鉉ゲートに関わる金の性格と金額を見ると、それこそ雑犯(政治犯以外の犯罪)水準だ。…今は人々が興奮して徹底捜査を注文しているが、時間が経てばそれこそ汚らしくて嘆かわしい考えのみ残るだろう」と書いた。
ジャーナリズムの第一原則である「事実報道」がちゃんとできていない点も、メディアが反省すべき点として指摘された。担当捜査チームさえ、新聞や放送で大型誤報が何度もなされ、ブリーフィングを随時することになったと話すほどだ。東亜(4月11日)、朝鮮(4月14日)、中央(4月15日)は、盧前大統領が100万ドルを受け取った翌日、グアテマラ訪問途中でアメリカに1泊2日滞在したことに関して、留学中だった息子の盧建昊(ノ・ゴンホ)氏にこの一部を生活費として渡そうとしたためだろうという疑惑を提起した。また、朝鮮日報(5月4日付1面)は、盧前大統領のノートパソコンが盧建昊氏の会社に渡ったことに関して、事業参与疑惑まで起こりうると書いた。しかし、これらの記事は単純な疑惑提起に終わり、事実確認はまともに行われなかった。中央は日報5月4日付6面で、キム・マンブク前国家情報院長が盧前大統領に「建昊氏が留学生活中に数億ウォンの投資をしたが、損害をこうむった」という情報報告をしたという疑惑も検察が調査中だと報道したが、国情院も検察もそれを否定した。
『SBS』が5月13日、「ニュース8」で「グォン・ヤンスク夫人が1億ウォン相当のブランド時計2個を田んぼのあぜ道に捨てた」とした報道についても、検察は即刻これを否定した。それにも関わらず、東亜日報(5月15日付8面)は「ポータルにはネチズンたちがボンハ村のあぜ道で2億の時計を探そうという書き込みをしている」という誤報性記事を“拡大再生産”した。
盧前大統領側の釈明は軽く扱いながら、容疑内容は断定的に報道する偏向性も指摘された。朝鮮は4月15日付4面のトップ記事に検察側の主張をそのまま載せ、「盧前大統領が要求し、家族が受け取って使った包括的賄賂」だと断定的なタイトルをつけた。この新聞は、召還捜査が終わった後には「有罪が認められれば重刑は不可避であり、一審判決は年内に出るだろう」(5月1日5面)というふうに、裁判官まで自任している。その反面、盧前大統領が自分のホームページを通じて釈明するごとに、一部の新聞は「苦しい弁明」と責め立てた。
専門家たちは、検察のブリーフィングや特定取材源の1人か2人の言葉をそのまま信じて書いた結果、誤報あるいは推測記事が量産されていると指摘した。パク・ヒョンサン弁護士は「ニューヨークタイムズの報道ガイドラインによると、対立する取材源4人以上の確認を経なければならないとされているが、韓国ではたった一つの“ストロー”に依存して書きながらも“~と明らかにした”という断定をしている」と皮肉った。韓国新聞協会、韓国記者協会などが採択した「新聞倫理実践要綱」3条の報道準則は、「捜査機関が提示する被疑事実は、真実の有無を確認するように努力しなければならない」と明示している。
チェ・ヨンジェ翰林大教授は「言論が競争的な政治権力を攻撃する目的で、極度に偏向したニュース戦略を駆使する攻撃ジャーナリズム現象が今回は特に深刻だった」「健全な批判報道は傷を負うだけだが、批判を超えた攻撃報道は憤怒を引き起こし、それが盧前大統領を死へ追いやった原因の一つ」だと語った。
パク・チャンソプ記者
『ハンギョレ』2009年06月05日
ロウソクで迎え、ロウソクで見送る
『ハンギョレ21』[2009.05.29第762号]
[特別企画]盧武鉉前大統領逝去
キーワード④ロウソク-大統領当選の決定的契機として始まり、任期中は「市民メディア」となった
追慕の光として灯された「参与政治」の象徴
▣アン・スチャン、イム・インテク、チョン・ジョンヒ
5月23日午後、ソウル徳寿宮大漢門前にロウソクが灯された。生前の笑顔の横に、誰かが芳名録を置いた。すでに市民たちの書き込みでいっぱいだ。震える手を押さえた痕跡が、魚のように脈打った。‘チョン・シンエ’という名前が抑えられない感情を込めた文章で語っていた。「20歳のとき、ロウソクを手に守りきりました。もう一度ロウソクを手に、今回はあなたの行かれる道を見守ることになりました」ロウソクは盧武鉉前大統領の生涯最期の7年間を共にした。掲げたり、下げたりされながら、いま再び彼の横に集まっている。
市民のロウソクが盧武鉉の資源になった
»そのとき、ブタの貯金箱に詰められたものは政治資金だけではなかった。参与民主主義に対する市民の長年の熱望は、まったく新しい方式の選挙参与を誕生させた。2002年11月28日、京畿富平駅広場で、支持者たちからブタの貯金箱に集められたお金を受け取った盧武鉉大統領候補(当時)が笑顔を見せている。写真=ハンギョレ/イ・ジョングン記者
すべてはロウソクから始まった。通学路で女子中学生2人が死んだ。米軍の装甲車に轢かれたのだ。2002年6月のことだった。「アンマ」というネチズンが、みんなで集まって追悼しようと提案した。指導部がいなくても人々が集まれるということを、それ以前は誰も知らなかったが、ソウル市庁前の広場に4万5000人が集まった。ロウソク。危なっかしく揺れる、小さくてか弱いロウソクの火を人々は胸に抱いた。事件、無名な人の提案、インターネット討論、広場のロウソク、既成政治を圧倒する市民の力…。この時から「ロウソク政治」の文法が形成された。
「反米だったらどうだと言うんですか」民主党大統領候補の盧武鉉が言った。1400度で燃え上がる数万個のロウソクの前に立った。「アメリカに対して韓国政府がもっと自律的でなければなりません」ロウソクが拍手を送った。大統領候補が「反米集会」に参加してもいいのかという意見が、大統領選挙キャンプの中でも多かった。そういった意見を気にせずロウソクの現場を訪れたとき、彼が念頭に置いたのは反米ではなく、市民だった。2002年6月以降、「市民としてのロウソク」は、決定的局面のたびに彼の資源となった。
2002年12月の大統領選敗北以降、ハンナラ党は「ヒョジュン・ミソンのロウソク集会による反米ムード」を敗因としてあげた。反米ムードまではわからないが、ロウソク集会が李会昌候補の敗北、盧武鉉候補の勝利と密接な関係にあるのは事実だ。右派の「ロウソク・コンプレックス」も同時に始まった。2008年の狂牛病牛肉輸入反対ロウソク集会の背後に、盧武鉉前大統領がいるのではないかと、右派は疑った。しかしそれは賢明な疑惑ではない。ロウソクの作動方式を依然として理解していないからだ。盧前大統領がロウソクを動かしたのではなく、既成政治の構造自体を疑う市民たちがロウソクを灯しては消し、また灯したのだ。
「政治は依然として特定政治家階級の職業的行為であり、それに侵入する経路自体をその階級が独占している」『愉快な政治反乱、ノサモ(盧武鉉を愛する会)』にノ・ヘギョンがそのように書いた。この本には「政治嫌悪の泥沼に咲いた政治愛のハスの花」という表現も登場する。「市民たちの連帯」によって政治改革を試みた盧武鉉路線に対する詩的概念化だ。実際に2002年12月19日、彼が大統領選に当選したとき、メディアは「ノサモの勝利」と書いた。民主党の勝利と記録していれば、不正確な表現になっていただろう。民主党よりも先に進んでいた「ノサモ」は、政党秩序に服従しない平凡な市民たちを代表していた。
貧しい家に生まれ、高校しか卒業していない盧前大統領にとって、最高エリートたちが掌握した政党・官僚組織の障壁は高かった。彼は既成の政党・官僚政治と常に緊張関係にあった。彼が闘ったのは地域主義以前に“エリート主義”だった。「名門の家、名門の学校の出身者たちは深く反省するべきです。機会主義によって個人的利益を図り、その中で不当に特権を享受してきた過ちが、余りにも多すぎます」大統領選の直前に出版された『盧武鉉の色』という本で、彼はエリートに象徴される既成権力の作動方式を批判した。
この点で彼は“両金”と断絶した。金泳三・金大中大統領は、既成政党の力学構造から誕生した。二人の大統領は揃って民主主義を標榜していたが、保守政党または分派の力を借りた。大統領・金泳三は1990年、三党合党を経た民自党結成の産物だった。大統領・金大中は生涯の宿敵、金鍾泌と手を握った“DJP連合”の結実だった。政治権力の上層をどう分割し、統合するのかが彼らの課題だった。だが盧武鉉前大統領は反対側を見ていた。政治権力の底辺、政治構造の外側から政治的資源を得ていった。
»ロウソクは盧武鉉前大統領の生涯最期の7年間を共にした。5月23日夜、ボンハ村の殯所前で市民が追悼のロウソクを灯している。写真『ハンギョレ21』チョン・ヨンイル記者
ロウソクに対する右派の根深い恐怖
“ノサモ”はすでに2002年の大統領選挙以前から主権在民と直接民主主義を標榜していた。政治家・盧武鉉はその意志を実現する人物とみなされた。彼らが「自律性を尊重するゆるい連帯」を具現化し、インターネットを基盤としたコミュニケーションと地域での小規模な集会形式の草の根組織を備えたとき、ロウソクの進化は予定された水準だった。2004年3月から3ヶ月に渡った大統領弾劾反対ロウソク集会は、その頂点だった。最大13万人が集まったこのロウソクは、議会の決定を無力化し、憲法裁判所の判断を事実上、圧迫した。政党の外部、路上や広場やインターネットに偏在した市民の力を信頼していた盧前大統領の判断は正しかった。政治家、盧武鉉と彼が表象する価値を守ったのは、政党ではなく市民だった。
その恐るべき威力を右派は早くから恐れた。右派はロウソクを別の用語で呼んだ。“ポピュリズム”だ。「ポピュリズムは大衆の感情をコントロールするために、むちゃくちゃに騒ぎ立てる興行だ。それにはいつくかの特徴がある。“反エリート”、“反知識人”、“藍衣社的道徳主義”といったものだ。今、韓国社会では大衆であれ、大統領志望者であれ、乱暴なポピュリズム風土にどっぷりと浸かっている」(2002年4月6日、『朝鮮日報』リュ・グンイルのコラム)
非難の脈絡に盛られてはいるが、間違ってはいない。興味深いことに、この保守論客は、ポピュリズムにどっぷり浸かった大統領志望者が反エリート主義と道徳主義を志向していることを知っていた。2002年のロウソク市民と2004年のロウソク市民は、まさしくその反エリート主義と道徳主義を力強く支持するために広場に集まった。
ロウソクはそれでも絶えず揺れている。2003年6月、イラク派兵反対を主張する市民たちが、ソウル市庁前の広場でロウソクを手にした。2007年3月には、米韓自由貿易協定(FTA)反対を叫ぶ市民たちがロウソクを手にした。ロウソクは大統領盧武鉉とコミュニケーションする“市民メディア”だった。その風景はもはや珍しいものではなかった。しかし、4年の間隔を置いて燃え上がった炎は、「盧武鉉がどこへ行っているのか」を問いただした。ロウソクはその歩みに疑問符を付けた。盧前大統領は、そのロウソクに賢明に答えることはできなかった。むしろ政治システムの上部構造に退行した。ハンナラ党と大連立を結び、底を突いた政治資源を補充しようとした。それは直接・参与民主主義に対する彼の信条を揺るがし、市民のロウソクも消えた。
100万人が集まった2008年のロウソクは、盧武鉉前大統領を記憶する場所ではなかった。人々は“反李明博政府”を打ち出した。李明博政府に反対することが、盧前大統領を支持することではない。しかし、李明博政府は判断を誤った。市民たちが不信感を抱いているのは政治構造全体ということも気づかなかった。ロウソクを見て、再び盧前大統領を浮上させた。世の中に存在する“盧武鉉のすべての遺産”をほじくり出そうとした。それには盧前大統領を直接狙った検察の捜査も含まれる。彼の死はロウソクに対する右派の根深い恐怖と関連している。そしてその恐怖は再びロウソクを呼び集めている。
今は何を守るのか
ずっと燃え続けるのだろうか?いつまで、どこまで燃え広がるのだろうか?去年のような大規模なロウソク集会を楽観する者は多くない。政権による弾圧があり、ロウソクが打ち出すスローガンも未だに漠然としているからだ。キム・ミンヨン参与連帯事務署長は「盧武鉉前大統領の死が、ロウソクが再び起きる起爆剤になるだろうが、追悼の波がどれだけ拡散するかは予測しにくい」と話した。
5月23日、大漢門前に書かれた芳名録の文章は、ほとんどが後悔と反省の告白だった。守れなかったことが申し訳なく、今さら過去を振り返るのも悔しいと書いた。“ジャヒョクとジャヒョンのパパ”も書き込みをした。「あのとき、むしろ彼らを阻止しなければよかった。あなたを弾劾したという者たちからあなたを守るためにこの場所に来たときは、こんなことが起こるとは想像もしませんでした。今はあなたを懐かしく思います」ジャヒョクのパパが「あなた」に再び会うことはないだろう。「あなた」はこの世を去ったからだ。「あなた」を好きで、時には憎くてロウソクを手にしていた人々は、それでも「あなた」のいない世界で生きていかなければならない。再びロウソクを手にしたジャヒョクのパパは、そのロウソクで何を守るのか苦悩しなければならない。そこに人々が行っている。
アン・スチャン記者、イム・インテク記者、チョン・ジョンヒ記者
既得権を自ら放棄した「脱権威の象徴」
『ハンギョレ21』[2009.05.29第762号]
[特別企画]盧武鉉前大統領逝去
キーワード③挑戦-党政分離、言論と線引き、地域主義の打破など新たな試みを続けたが、右派・族閥言論の砲火で傷ついたのみ
▣チョ・ヘジョン
「私は今回の選挙によって古い政治が終わりを遂げ、新しい大韓民国を導く新しい政治の時代が始まることを宣言します」2002年の大統領選挙を2日後に控えた12月17日、記者会見で盧武鉉前大統領は“盧武鉉時代”をこのように規定した。しかし、1年後の2003年11月5日、彼は元老知識人13人を青瓦台に招待して開いた午餐懇談会で、このように話した。「太宗(13~14世紀の三代目の朝鮮王)が世宗(四代目の朝鮮王)の時代基盤を築いたように、新しい時代の長兄になりたかったが、旧時代の末っ子になりそうだし、旧時代の最終列車に乗ったような気分です。過去の旧態から抜け出し、後世が再び泥沼にはまらないようにし、次の政府がうまくいくようにします」その通りだった。彼は旧時代を清算し、「新しい時代の長兄」になろうと絶えず挑戦したが、旧習は根深かった。挑戦はいつも挫折したのだった。
»2003年9月30日、青瓦台国務会議の途中、盧武鉉前大統領がコーヒーを飲みながらパク・ホグン科学技術部長官(一番左側/当時)から科学衛星の交信成功に関する報告を受けている。盧前大統領は国務会議中に、長官たちと共に自分で淹れたお茶を飲むなど、権威主義をなくそうと努力した。写真/青瓦台写真記者団
族閥言論*、「左派」と色づけ攻撃
盧武鉉前大統領は、既得権を放棄することで政治改革を試みた。与党だった“開かれたウリ党”との関係が代表的だ。公薦権や党役員の任命権によって党に全権を振るう「総裁」だった歴代大統領とは違い、彼は単なる平党員だった。党政分離を実行したのだ。しかしその代価はずいぶんと大きかった。党内に確固とした支持基盤はなかった。2006年の地方選挙惨敗に続き、ハンナラ党との大連立の提案、不動産価格の暴騰などで民心離反が加速化し、ついには脱党まで要求された。「拙速な党政分離のせいで、国政運営がダメになった」という批判も受けた。これについてイ・ジュンハン仁川大教授(政治外交学)は「与党が青瓦台の挙手ロボットになることを防ぎ、国会の独立性を保障する党政分離は、どの歴代大統領も試みさえできなかったこと」だと評価しながらも、「問題は党と政府がコミュニケーションまで断絶してしまったため、両方とも孤立してしまい、最悪の状況になった」と指摘した。
「国家保安法
**は韓国の恥ずべき歴史の一部分であり、独裁時代の古い遺物だ。国民主権・人権尊重の時代にするには、その古い遺物を廃棄すべきなのではないか。鞘に収めて博物館に入れるべきなのではないか」2004年9月5日、文化放送の対談で盧前大統領がした発言は、旧時代の清算という目標意識を克明に示した。保安法廃止は、ハンナラ党や右派陣営のとてつもない反発に突き当たった。朴槿恵ハンナラ党代表(当時)は「大韓民国の法秩序が野蛮の時代なのか。自由民主主義と市場経済を守る最後の安全装置である国家保安法を廃止することは、私のすべてをかけて阻止する」と話した。ハンナラ党は予算案処理のための臨時国会も拒否した。右派団体は路上にあふれ出た。結局、国家保安法を廃止するどころか、一文字も変えることができなかった。
族閥言論との闘いは、ほとんど「無謀な挑戦」だった。2001年8月1日、水原市で開かれた民主党国政大会で彼は「不正特権新聞である『朝鮮日報』をそのままにしておいては、この地の本当の改革はない。党員と指導部が固く団結して党運と国運をかけて闘えば、李会昌(イ・フェチャン)ハンナラ党総裁と『朝鮮日報』は共に没落する」と発言した。その言葉どおり、大統領になった後に彼は「国運」をかけて族閥言論と闘った。国政演説で「族閥言論の横暴」「迫害」など刺激的な表現を使って、これらを批判した。これらの取材には応じないこともあった。新聞市場の独寡占を規制する新聞法も制定した。誤報には一々、訂正反論報道を申請するように公務員に督励した。族閥言論は盧前大統領に「左派政権」という色付けをし、攻撃的に対応した。不動産政策も左派政策、教育政策も左派政策だとした。2004年3月、盧前大統領の弾劾が可決されると、『朝鮮日報』は「大統領職に復帰したとしても、我々にとっては深刻な問題にならざるをえない」と書いた。『東亜日報』は2006年6月、「(任期が)残りの1年半、我々だけでも実用的グローバル化で生き残らなければならない。日帝36年も耐えた我々だ」と書いた。憎悪だった。不幸なことに、世論を左右する力は彼ではなく、これらの言論にあった。
脱権威も盧武鉉前大統領が重要視した課題だった。2003年3月11日、参与政府(盧武鉉政府)の2回目の国務会議が開かれた。会議は3時間近く続いた。しかし、参加者たちはそれほど疲れてはいなかった。会議の途中、大統領が提案した休憩時間のおかげだった。大統領と長官たちは、会議場外の通路にセットされたテーブルの周りでコーヒーを飲んだ。盧前大統領も、長官たちも全員が自分で淹れたものだった。硬直した雰囲気で進められていた国務会議では、休憩も、コーヒーも想像しがたいことだった。軽いジョークも交わされた。この日の会議が終わった後、国務委員は「あんな席も初めてだが、大統領が自分でお茶を淹れて飲むのを見て新鮮な印象を受けた。大統領に近づきやすくなった」と話した。
地域の均衡発展も憲法裁判所に阻害され
»退任後、ボンハ村に帰った盧武鉉前大統領が2008年3月、村の雑貨屋でタバコを吸っている。ネチズンたちはこの写真を見て「ステキな盧武鉉」という意味の「ノカンジ」という別名をつけた。写真/聯合ニュース=チェ・ビョンギル
盧前大統領自らが権威主義の鎧を投げ捨てた例は、これだけではない。大統領別邸である青南台を国民に開放した。総理が主宰していた国務会議から青瓦台主席秘書官会議、主席補佐官会議まで直接主宰した。会議には長官だけでなく、関連実務者まで出席し、自分の意見を自由に話した。聞きたい意見があれば、行政官に直接電話をかけたり、向かい合ってタバコを吸ったりした
***。
はばかりのない表現も、同じ脈絡だった。「大統領の言語と庶民の言語が別個ではありえない。盧大統領は日常と公式言語の一致が権威主義を打破し、庶民大統領を志向する哲学と一致すると考えている」という当時の青瓦台参謀の言葉は、振り返るに値する。肩に力を入れるのではなく、国民と誠実なコミュニケーションをしてこそ本当の権威を認めてもらえるというのが彼の考えだということだ。右派や族閥言論は、今回は「軽薄で品位がない」という評価を下した。
地域主義の解消も、盧武鉉前大統領の宿願だった。1990年、三党合党
****で「異議があります」と手を上げた瞬間、彼は地域主義解消の象徴になった。党内になんら基盤のない「嶺南出身の湖南党大統領候補」の当選は、多くの人々に地域主義解消の可能性の夢を見させた。ハンナラ党に大連立を提案したことも、地域主義に対する苦悩のためだった。しかし、彼が行った人事では、「嶺南覇権主義」のみ強化させたという批判を受けもした。
地域均衡発展も彼の挑戦課題だった。しかし、その戦略で打ち出した行政首都圏説は、推進初期から容易ではなかった。2004年1月に交付された「新行政首都建設のための特別措置法」に対して、その年の9月に憲法裁判所は「ソウルが首都だということは慣習憲法」という奇想天外な論拠で違憲決定を下した。「首都移転は戦車を動員してでも阻止する」という当時の李明博ソウル市長をはじめ、首都圏の民心も悪化していった。規模を小さくした行政重心複合都市に変えて再び推進するしかなかったが、民心は首都圏と忠清圏に割れるだけ割れた後だった。
盧前大統領が夢見た政治改革の到着地点は、制度で運営される民主主義だった。盧前大統領が大統領記録物法をつくるまでに記録に執着したのも、そんな意志からだった。彼は夜に青瓦台官邸で私的に誰かと会ったとしても、次の日に記録管理秘書官に会った人と交わされた会話の要旨を伝えたそうだ。このため、盧前大統領が残した指定記録物は37万件以上になった。先の大統領たちが青瓦台を去る際に、指定記録物をほとんど残さなかったのとは大違いだ。しかし、やはり「先輩」たちが正しかったのだろうか。李明博政権は、就任6ヶ月目に裁判所を動員して指定記録物の公開に着手した。指定記録物は容易に公開された場合、現職の大統領が後任を意識して主要記録をちゃんと残さなかったり、後任が前大統領を相手に政治報復をする可能性があるため、非公開という装置を備えた制度だ。李明博政府はこれに加えて「記録物流出」騒動まで起こした。イ・ジュンハン教授は「自分の足首を捕まれるという覚悟をしてまで責任政治をする基盤をつくったのに、本質とは無関係ないざこざになってしまい、残念だ」と語った。
盧前大統領は、なぜ絶えず挑戦し、何度も挫折を繰り返さなければならなかったのか?ハン・クィヨン韓国社会世論研究所主席専門委員は「旧習を終わらせようとする情熱は強かったが、“その次”を出せずにいた。旧時代の慣習と地域主義の打破、党政関係の変化など、重要な課題をなげかけたが、それからどうするのか準備された内容を示すことができず、自らの立場を悪くした」と分析した。戦時作戦統制権の還収、地域均衡発展、行政首都移転などの問題が容易に「理念問題」に飛び火したのも、利害関係が衝突したり、意見がするどく対立しかねない事案を「当為」としてゴリ押ししようとしたためだということだ。
最期の瞬間、旧時代の末っ子になろうとしたのか
大統領職から離れた彼は、故郷のボンハ村へ帰り、「市民」になろうとした。「ジョンパン」(雑貨屋の慶尚道の方言)に座ってタバコを吸ったり、自転車に取り付けた車に孫を乗せて村を回ったりもした。ボンハ村の住民とカモ農法を利用して「環境にやさしいボンハのカモ米」を収穫した。「自由に話し、深みのある会話が交わされる市民空間をつくろう」と開設したウェブサイト『民主主義2.0』では、「盧公移山」(愚直な人が目的を達成するという意味の「愚公移山」に「盧」を合わせた言葉)というハンドルネームで米韓自由貿易協定などをめぐって討論をした。権威主義を投げ捨てて、参与と討論によって民主主義の発展に力を添えるための努力だった。初めて見るタイプの元大統領の姿に、ボンハ村は観光客でにぎわい、ネチズンたちは「ノカンジ」(ステキな盧武鉉という意味の合成語)という愛情のこもった呼び名をつけて熱狂した。
検察が息の根を止めようとやってくると、彼は「私はすでに民主主義、進歩、正義、このような言葉を語る資格を失ってしまいました。みなさんは私を見捨てなければなりません」と書いた。そして2009年5月23日、自らをこの世から捨て去った。「多くの人々が指導者は清廉であれと言い、(指導者に)決断力を求めるが、50年、100年後に見ると、多くが傷ついたにもかかわらず、歴史と同じ方向に行くのか、それとも反対方向に行くのかということが問題になる。その時代を生きている人を正しい方向に率いていくのが重要だ」(2002年9月26日、民主党大統領候補時代)最期の瞬間、「盧公」はもしかすると「旧時代の末っ子」になることを望み、この言葉を蘇らせたのではなかったのか。
チョ・ヘジョン記者
* 朝中東(朝鮮・中央・東亜日報)などの大手新聞を中心とした保守系メディアのこと。
** 反国家活動を規制し、国家の安全保障のために制定された法律(前文改定1980. 12. 31、法律第3318号)
*** 韓国では目上の前でタバコを吸うことはタブー。逆に言えば、向かい合ってタバコを吸うのは、うちとけた関係。
**** 1990年1月22日に民正(盧泰愚)・民主(金泳三)・共和(金鍾泌)の三党が合同宣言をした。
韓国では共産党が未だに非合法であるため、大統領が外国の共産党とちょこっと交流したり、許容するような発言をすれば、たちまち
アカのレッテルを貼られて保守側から
ムキーッ!と叩かれるんですね。
下のコラムにもあるように、盧武鉉前大統領の政策は決して左派的ではなかったのですが、それを「左!左!」と叩いてるやつらの頭の中はどれだけ右なんだ・・・。今の政権はどこまで傾いちゃってるんだ・・・。冷戦も終わって久しい今どきねぇ。
[東京から]「大きな政治を行うべき」/キム・ドヒョン
盧武鉉前大統領が在任期間中にした様々な過激発言の中でも、強度が高いのが「共産党許容論」だ。日本訪問最終日の2003年6月9日、衆議院議長主催の歓談会で、日本共産党の志位和夫委員長に「私は韓国で共産党が許容されて初めて完全な民主主義になれると思う」と語った。そして「韓国で共産党と交流する政治家がいるとすれば、それは私だ」と付け加えた。
野党と保守メディアは、待っていたかのように大々的に一斉批判した。パルチザンの義父(岳父)を持つ「目の上のコブのような」大統領の共産党許容発言は、保守勢力にとっては絶好の攻撃材料だったのかもしれない。論争が起きると、ユン・テヨン青瓦台スポークスマン(当時)は「共産党合法化は、西欧や日本のように制度化の枠内で活動し、制度圏に進出したような政党について話しただけ」だと弁明した。実際に、日本共産党は1960年代末~1970年代初頭の全共闘学生運動の主役だった新左翼の学生たちの主要打倒対象になるほど、兼ねてから議会主義を標榜した制度政党の一つだ。
今考えてみると、共産党許容論ほど盧前大統領の民主主義観と政治哲学をよく表しているものはないだろう。思想の自由を制度的に保障することこそ自由民主主義の実践だという考えが、彼の言葉の中から容易に読み取れるからだ。批判を恐れず、自分の信念を貫徹しようとする原則主義者の面もしっかり溶け込んでいる。
それから3年3カ月後の2006年9月5日、志位委員長は日本共産党の党首としては初めて韓国を訪問した。ソウルで開かれた第4回アジア政党国際会議に参加するためのものだったが、盧前大統領の開放的な姿勢がなければ簡単ではなかっただろう。彼は日本に帰った後の9月25日、党報告会議で「韓国は現在、民主主義がダイナミックに発展している」とし、「少なくとも“反共の壁”は、日本共産党との交流では感じられないほど崩れている」と所感を述べた。
志位委員長の評価とは違い、盧前大統領は在任中、ハンナラ党や保守メディアから左派政策を展開しているという非難に苦しめられた。これを受けて、一部の日本メディアも参与政府(盧武鉉政権)に対して左派、親北政権だと皮肉った。そうだとすれば、彼は本当に左派大統領だったのだろうか?数日前、韓国政治に精通している日本の学者4人に彼の在任時の政策評価について聞いてみたが、左派政策を展開したと主張した者は一人もいなかった。むしろ、木宮正史(きみやただし)東京大教授は「雇用政策面で、金大中政権よりもはるかに新自由主義的な政策を多くとった」と診断した。
盧前大統領が左派であれ、どうであれ、日本共産党内には、彼の時ならぬ死を哀惜する雰囲気が強い。志位委員長は先月27日、駐日韓国大使館を訪れ、弔問後にグォン・チョルヒョン大使に「突然の訃報に驚き、悲しんでいる」と哀悼の意を表した。「盧武鉉の熱狂的なファン」だという、日本共産党機関紙『赤旗』のある記者は、電話で「昨日の夜、憂鬱な気分で酒を飲んだが、やたらと涙が出た」と話した。「挑戦して倒れても、挫折せずに前面突破する姿が共産党と同じで共感する。庶民的な感性で行動したり、話す点は日本の政治家の中ではあまり見られないだろう」
金大中元大統領は28日、「ご覧ください。市庁前で焼香することさえ(政府が)阻害しています」と韓国の民主主義が危機に瀕していると嘆いた。共産党との交流までも許容した、韓国のダイナミックな民主主義の発展に対する賛辞から3年も経っていない。木宮教授は「大きな政治を行うべきだ」と李明博政府に注文した。
キム・ドヒョン特派員
『ハンギョレ』2009年05月31日
* 関連記事
がんばれ日本共産党
システムによる盧武鉉殺し
『ハンギョレ21』[2009.05.29第762号]
[特別企画]盧武鉉前大統領逝去
キーワード②憎悪-当選時からつきまとう政治・司法・言論権力の無視、そして退任後の報復
逝去以降の無茶な対応は、憤怒を漸増させる
▣イ・テヒ/イ・スンヒョク
「とても腹立たしい。私の周囲でも盧武鉉を心底から嫌っていた何人かを除けば、みんな怒っている」ソウルのある総合病院の副課長で、大学の学籍番号が82番だった教授は、記者にこのように電話をかけてきた。彼の声は少し震えていた。「苦痛が余りにも大きい」という盧武鉉の遺書の内容が発表された頃だった。5月23日の昼2時頃だ。
「李明博はどうするのか、この両目をしっかり見開いて最後まで見てやる」同じ頃、学籍番号が90番だったある大企業の次長は、このように話した。その横にいた、現役教師でもある夫人は、「非主流の象徴が結局、主流に踏みにじられた。私たちはついに守りきれなかった」と話した。唇をぐっと噛みしめていた夫は、放送で(大統領退任後に)ボンハ村に戻った盧武鉉が「あ~、いい気持ちだ」と叫ぶ場面を見てついに涙を流した。
»憎悪と無視を基盤にした現実政治権力と司法権力、そして言論権力による「盧武鉉殺し」は結局、彼の死で帰結した。4月30日、検察に出頭する盧武鉉前大統領。写真/写真共同取材団
現政権の「烘雲托月」
地方出身。貧農の息子。高卒。人権弁護士。在野政治家。万年野党。その総合体が盧武鉉だ。大韓民国の主流派は、一度もそのような非主流が最高権力になったという事実を認めなかった。在任中はもちろん、退任後も、政権与党と保守メディアに象徴される主流派は彼を嘲弄した。パク・ヨンチャ元泰光実業会長事件で検察は保守メディアを動員し、彼の被疑事実を毎日生中継するかのように公表した。ある日はグォン・ヤンスク夫人をソウルではなく釜山地方検察庁に呼び出し、形式的に「礼遇」したとしたり、ある日は「再召還」すると脅した。前大統領も必要なら二度でも三度でも呼べる存在にした。
しかし彼らは盧武鉉大統領を当選させた1201万4277票の重みを忘れていた(2002年当時は投票権がなかった19歳未満の支持者を除いた数だ)。盧武鉉前大統領が無視されたとき、彼らは自分たちが無視されたと感じた。盧武鉉前大統領が侮辱されたとき、彼らに伝わった不快感も募っていった。彼の死を前にして、数多くの憤怒と数多くの涙が舞い散る理由だ。
韓国政治の「憎悪と報復」のシステムが盧武鉉前大統領を死へと追いやった。イム・ヒョクベク高麗大教授(政治外交学科)は、「民主化以降も政権交代と共に過去の政権を審判し、清算する過程が繰り返された」「その結果、前の大統領が自殺するという悲劇的な状況まで作り出した」と指摘した。現政権が前政権を清算する理由はなんなのか。チェ・ジェチョン法務法人漢江代表弁護士は、東洋画の「烘雲托月」の話をした。丸く余白を残しておき、雲を描いて月を表現する技法だ。雲を描いて月を際立たせるのだ。チェ弁護士は「前政権の不道徳性を露骨に際立たせることで、自分たちと差別化することがこれまでの政治過程で繰り返されてきた」「今回も李明博大統領をはじめとする主流派は、盧武鉉前大統領の不正を際立たせることで自分たちと差別化しようとした」と語った。文字通り「盧武鉉殺し」だった。
保守メディアは在任当時、盧武鉉大統領を常に「無能力と憎悪の化身」として描写した。カン・ジュンマン全北大教授の『盧武鉉殺し』(蓋馬高原発行)は、盧前大統領在任初期の状況がうまくまとめられている。本に引用された『文化日報』2003年6月20日付のコラムだ。「大統領選挙の結果、大韓民国は下降平準化された。ワールドカップ4強は、誰でも優勝できる、誰でも大統領になれるという妄想を育てた。自分に近い水準の大統領を選ぶことで、自分も大統領になれるという自慰心を満たすために選挙があるのではない」と書き、盧前大統領と彼に投票した者たちを「基準に到達していない者たち」として同時に卑下した。『朝鮮日報』2003年6月23日の時事評論にはこう書かれていた。「猜疑心とは自分の利得を減少させない他人の幸福や、彼らが所有している社会的善を敵対的に見る心理状態だ。これは憎悪を母として現れる。問題は大統領選挙という大規模な闘争で勝利することで、このように明白な悪行である猜疑心を“道徳的な義憤”で包むということにある」これを準拠とすれば、盧前大統領は主流に対する憎悪を基盤にした猜疑心にあふれた存在だ。保守メディアは盧前大統領が「江南-三星-ソウル大」に象徴される韓国の主流に対する憎悪を現実政治に利用するというフレームを作ろうとした。カン・ジュンマン教授は「これらの主張にあふれる猜疑と復讐の修辞学は、この地の守旧既得権勢力が盧武鉉に対して持っている反感の強度と深度がどの程度なのかを示している」と語った。
»昨年退任した盧武鉉前大統領が、自転車に取り付けた車に孫を乗せて村の周辺を走っている。彼は庶民的な姿で国民の前に出ることを楽しんだ。写真/盧武鉉前大統領ホームページ『人が暮らす世の中』提供
大検察庁の中枢部を強盛ラインに変え
これは在任期間中ずっと続いた。シン・ビョンリュル慶星大教授(新聞放送学)は、「『朝鮮日報』の朝鮮漫評が盧武鉉前大統領に対して作ってきたフレームを一言に圧縮するなら、それはおそらく“無資格”だろう」「能力や性格など、あらゆる部分をひっくるめて無能なイメージで一貫している」と主張した。シン教授は『朝鮮日報』の「朝鮮漫評」が、盧前大統領の在任期間中(2003年2月25日~2008年2月24日)に彼をどのような素材と方法で風刺したのか調査し、5月16日に「2009年韓国言論情報学会春季定期学術大会」で発表した。
盧武鉉前大統領に対する「猛烈な」捜査も「憎悪から始まる」と説明するものが多かった。検察は今年の3月、パク・ヨンチャ前会長を捜査していた大検察庁中央捜査部を強盛ラインに変えた。新たに入ったイ・インギュ中枢部長とウ・ビョンウ中枢1課長は、「強盛」と「非道」なイメージで有名だった。彼らはパク前会長を強く圧迫し、思い通りの結果を次々と手に入れた。パク・ジョンギュ前青瓦台民政主席やチョン・サンムン前総務秘書官、イ・グァンジェ議員など、参与政府の主要人物を次々に拘束させた。イ・ジョンチャン前青瓦台民政主席やチュ・ブギル前広報企画秘書官、そしてチョン・シンイル・セジュンナモ会長などの均衡錐を合わせる現政権の実勢たちの嫌疑も確保した。この過程でメディアを通じて盧前大統領はもちろん、夫人や息子、娘まで「不正の温床」として描写された。盧武鉉は最期の遺書で「私のせいで多くの人が受けた苦痛は、あまりにも大きい。これから受けるであろう苦痛も計り知れない」と書いた。「健康状態が良くないので何もできない」という絶望と、「本を読むことも、字を書くこともできない」という苦痛に身もだえしていた心境を明かした。彼は死によってその茨の道を閉ざそうとした。
盧武鉉前大統領は政治生活を送っている間中、検察との緊張関係を維持してきた。彼は弁護士でありながら、1987年に労働争議調停法の「第三者介入禁止」条項に違反したという容疑で拘束された。彼の目に検察は「権力者の一言で態度を180度変えうる存在」と映った。彼は大統領に当選すると、判事出身のカン・グムシル法務長官カードを出し、検察改革を注文した。検察が組織的に反発すると、盧武鉉は有名な「検事との対話」を開いた。正面突破だった。「この程度ならすぐ行こうということでしょう」という言葉を残した。キム・カクヨン検察総長(当時)は、辞表を提出した。盧前大統領は高位公職者の不正操作先の新設と、検・警察の捜査権調停論議などを通じて検察権制限を試みた。身の危険を感じた大検察中枢部は、2003年の大統領選挙の資金捜査過程で、盧前大統領に向かって刀を振り回した。
任期中盤でも「対決」は行われた。カン・ジョンク元東国大教授事件で、後任のキム・ジョンビン検察総長が辞任した。検察内部では「検事のプライドを傷つけた」、「検察組織を揺さぶろうとした」という拒否感や反感が組織的に大きくなっていった。検事出身の一部のハンナラ党議員は、盧前大統領に対する強度の高い捜査の原因をこのような「怨恨」のせいだとした。
»2004年の第16代国会が盧武鉉大統領(当時)の弾劾案を可決すると、キム・グンテ議員(写真左側)とチョン・ドンヨン議員(共に当時)などが抱き合い悲しみの涙を流している。写真『ハンギョレ21』ユン・ウンシク記者
「後爆風」の主な対象は検察と保守メディア
ならば李明博政府はなぜ検察に盧前大統領を捜査するようにしたのか?政界には「ロウソク政局」がさらなる直接的な原因だったと解釈する者が多い。民主党のある元議員は、「李明博大統領は去年のロウソク政局で米韓牛肉交渉に対する盧武鉉前大統領の態度に強い背信感を抱いたようだ」と語った。牛肉交渉について青瓦台は「盧武鉉政府がしなかったことを、洗った」のだと表現したことがある。ハンナラ党の主要党役員は、「ロウソク政局を主導した勢力を検討する過程で、いわゆる「親盧勢力」の一角を成しているという結論を下した」とし、「青瓦台としては砂の城や変化のない民主党よりも、一握りにしかならなくても石のように結集した親盧勢力がまず整理が必要な対象だった」と分析した。この党役員は「来年にある地方選挙で、盧前大統領を中心にした政治勢力が嶺南に登場することを阻止するという意味もあった」だろうっと話した。
憎悪と無視を基盤にした現実政治権力と司法権力、そして言論権力による「盧武鉉殺し」は、結局、彼の死で帰結した。今残っているのは、その結果だ。後爆風だ。政治コンサルティング会社ナウリソチのイ・ジェギョン代表は、「これからの“後爆風”は、ブラックホールレベルになる可能性がある」「主な対象は盧武鉉前大統領を直接捜査した検察と、彼を不道徳の極致に追いやった保守メディアがなるだろう」と語った。李明博大統領もやはり、自由ではいられないと言った。
死は韓国政治の巨大な突発変数だった。カン・ジュンマン教授は新作『現代政治の表と裏』で、韓国民主主義の特徴を「心情民主主義」だと語った。カン教授の分析だ。
「韓国民主主義の動力は、心情が爆発したデモだった。4・19革命から6月抗争に至るまで、韓国民主主義の成果はすべてデモの結果だった。韓国人に落ち着いた対話と討論の場は与えられず、そのような経験もなかった。キム・ジュヨル、パク・ジョンチョル、イ・ハンヨルという(烈士の)名前が語っているように、決定的契機となったのはすべて個人の死だった。これぞまさに「心情民主主義」の不可思議なシーンだ。
その心情を爆発させるのが「逆上」する感情だ。カン教授はこれを「逆上民主主義」だと定義した。
「我々は4・19革命が3・15不正選挙の当然の帰結だと考えるが、実情は決してそうではない。馬山(慶尚南道の都市)で「不正選挙をやりなおせ」、「発表警官を処罰しろ」という声が上がったときも、ソウルは3・15以降、34日間も耳を塞いだかのように静かだったという点に注目する必要がある。もし4月11日に馬山の海でキム・ジュヨル烈士の遺体が浮かんでこなかったら、「逆上」した大規模デモは起こらなかった可能性が高い。パク・ジョンチョルとイ・ハンヨル烈士がいない6月抗争を考えることは難しいのと同じようなものだ」
前任大統領の「安全な帰家」を保障しなければ
2004年3月12日、大統領弾劾とその直後の第17代国会議員選挙での開かれたウリ党の圧勝も、「逆上」する気質の暴発が招いたものだ。盧武鉉前大統領の死に接した彼らの口からは、自ずから「こんなことでは民乱になる」という言葉が出てきた。自ら爆発寸前の民心を自覚しているのだ。
ハンナラ党内部でも、李明博政府がすべての負担を背負うことになったという分析が出ている。ハンナラ党のある一年生議員は、「MB(李明博大統領)は今回の6月国会でメディア関連法の処理を執権後半期を準備する、一種の“画竜点睛”だと思っていたが、今の状況ではこれを強攻することは“火薬を抱えて火の中に飛び込むような事態”になった」、「執権後半期の戦略を事実上、再び組まなければならない状況に至るかもしれない」と憂慮した。ハンナラ党のある役員も、「李明博大統領は“調査ドライブ”によって去年のロウソク政局で失った国政掌握力を回復してきたのだが。今は調査ドライブを事実上、中断しなければならない状況に置かれた」「大統領が検察と税務権力を現実政治に動員したことがこれからの国政運営に長らく負担として残っていくだろう」と憂慮した。青瓦台に対する批判も起きた。ハンナラ党の他の役員も「盧武鉉前大統領を死にまで追いやったのは、青瓦台の民政と政務機能が無能力だということを白日にさらしたことではないのかという人が多い」「李明博大統領はこの際、青瓦台と権力周辺を点検する必要がある」と指摘した。
与野では「検察改革」の話しが出る可能性が高いと見られている。ハンナラ党のある主要役員は、「党の内外からは、金泳三政府の初期に試みた“中枢部解体論”を再び提起しなければならないのではないかという話が出ている」「当時、金泳三大統領は大検察にも(直接捜査を担当する)中枢部がある理由がないので、これを解体しようとしたが、全斗煥・盧泰愚元大統領の処罰のために中枢部を動員しなければならないため、存置させた」と話した。
このような被撃の悪循環を防ぐためには、「憎悪の政治」を中断させなければならない。イム・ヒョクベク教授は「民主主義の完成のためには前任大統領の“安全な帰家”を保障しなければならない」「韓国がアフリカでもないのに“死の民主主義”パターンに陥ってはならない」と指摘した。イム教授は「安全な帰家が保障されてこそ、権力を簡単に手放すことができ、平和的な政権交代がよりスムーズに行われるようになる」「李明博大統領からその土台を作るべきだ」と話した。
もちろん、後爆風の大きさが大きくはないだろうという意見もある。民主党のある役員は、「過去の民主化運動の過程における烈士の死は、独裁政権の構造的な抑圧の結果であったため、これを解決せよという政治的スローガンが出やすかった」「盧武鉉前大統領の死に対して、政治的スローガンを提示することは簡単ではない」と話した。
後爆風が吹くのか、その程度がどれほどなのかを予想することは容易ではない。しかし、盧武鉉前大統領の死まで嘲笑する一部の保守勢力の態度と、“ロウソクを防ぐべし”と焼香所設置や焼香まで阻む政府の無茶な対応が、憤怒を漸増させている状況であることは明らかだ。
墓にもつばを吐く
自ら大韓民国の主流を自任する保守論客の趙甲済(チョ・ガプチェ)氏は、逝去当日の『趙甲済ドットコム』に「大統領のような至高の地位にいた人がただ死んだだけでも逝去と言う」「しかし、現職から退いた者が検察に出頭し、贈賄授受容疑で庁舎を受けて告発される直前に自殺したことから、“逝去”というのは話しにならない」と書いた。趙甲済式表現によると、彼らは盧武鉉の「墓につばを吐いた」のだ。依然として彼らの目には、盧武鉉大統領とその死に憤怒する“非主流”が見えなかったのだ。その非主流たちの相当数は韓国社会の中核を担っているという事実も、彼らは忘れている。彼らが無視し、無知であるほど非主流の憎悪は募っている。その憎悪を再び世襲するのか。
イ・テヒ記者/イ・スンヒョク記者