[アジアの今日を歩く]民主化は民衆の心から
[ハンギョレ21 2008.10.03第729号〕
ビルマの水害現場イラワディ・ルポ②-軍事政権を信じるのか、戦争も辞さない西側を信じるのか
ビルマのイラワディ・デルタ地域で起きたことは悲惨だった。サイクロン「ナルギス」は人間の力ではどうにもならない自然災害だったが、その後は人間の手によるものだった。イラワディの惨劇は、自然災害が人間の手に移行したときに光を放った。ビルマの軍事政権は、一瞬にして親兄弟、家はもちろん、あらゆるものを失って飢えに直面した罹災民を見捨てた。国際社会の援助を要請するどころか、拒絶して難しい条件をつけるという居丈高な態度をとった。
»イラワディ・デルタ地域の悲劇は、自然災害が人間の手に移行したときにようやく始まった。ビルマ軍部が‘戦時用’に作っておいた罹災民収容所で、ある男性が悲壮な表情をしていた。
緊急援助が必要な時期に軍事政権の非難ばかり
あれはどういう決意だったのか。腐敗したビルマの軍事政権が、流入してきた救援物資で自分たちの私腹を肥やすのに汲々としていたところを見ると、物資を嫌がるどころか、待ち望んでいたのは明らかだ。しかし、軍事政権は自分たちの身に危険が及ぶほどまでには貪欲ではなかった。彼らは一刻を争う罹災民救援に太平洋艦隊所属の軍艦4隻と22台のヘリ、上陸艦、水陸両用車、5000人の兵力などを送ってきたアメリカの感激的な‘慈悲深さ’や、やはり救援物資を載せた海軍上陸艦ミストラル号を送り込んだフランスの‘人道主義’には断固として拒絶した。
災難直後にタイや中国、インドネシアなどASEAN諸国からの救援物資支援がこれといった支障も来たさずに進められたことを考慮すると、ビルマの軍事政権が門を閉ざした対象は‘世界’ではなく、いわゆる‘西側’だったことがわかる。絶望的状況に陥ったイラワディの罹災民たちを人質に、ビルマ軍政と西側が繰り広げた救援ゲームの緊迫した裏事情は、めまいと共に物悲しさを引き起こした。
アメリカは真っ先に救援の手を差しのべ、アンダマン海に駆けつけた。コンドリーザ・ライス米国務長官は、ビルマ政府が国民のために即刻、国際社会からの援助に門を開かなければならず、「これは政治ではなく人道の問題」だと念を押した。もちろんこれはヨーロッパと北米に共通する立場であり、世界中のメディアもこれを先導した。しかしアメリカとフランスが軍艦を送ってきたため、ビルマ軍政にとっては人道ではなく政治と軍事の問題となった。アメリカとフランスは、軍艦を送らなければならない理由を援助の緊急必要性のためだと説明した。しかし、軍艦以外の輸送手段を利用するのと同じくらいの時間が経過し、依然として緊急援助が必要なのに、アメリカとフランスは援助ではなくビルマ軍政を非難することにエネルギーを消耗した。そして結局は背を向けた。国連や西側諸国は3ヶ月が過ぎる前にイラワディをきれいさっぱり忘れてしまった。ゲームが終わったのだ。
イラワディの惨劇は、アメリカやヨーロッパがビルマで渇望しているものが人権や救援ではなく、天然資源や市場をめぐる利益であることを再度証明した。1997年から始まったビルマに対するアメリカの経済封鎖は人権蹂躙を理由に行われたが、そのアメリカの企業であるユノカル(UNOCAL)がガスパイプラインの埋設をめぐってビルマ軍政と結託して行った強制労働のようなことは、醜悪な人権蹂躙の代表的な事例だ。1996年に人権蹂躙で法廷に立ったユノカルは、テロとの戦争を打ち立てた米国務部の積極的な弁護によって処罰を免れた。
アメリカが送り込んだ軍艦の意味
また、ビルマ軍政はアメリカの経済封鎖にまったく打撃を受けていない。ビルマが世界でもっとも孤立した国だというのは、観光客にとっては正しい評価かもしれない。しかし、ビルマはすでに世界資本主義体制に下位ではあるがしっかりと組み込まれた状態だ。中国、タイ、さらには韓国もビルマの油田や天然ガスの開発に関与していたり、関与を模索していることは周知の事実だ。これらはすべてユノカルと同じようにビルマ軍政の金づるの役割を果たしている。ユノカルを合併したシェブロンテキサコ(ChevronTexaco)は、依然として莫大な利益を上げており、ビルマ軍政も甘い汁で口を潤している。1989年以降、15億ドルの軍事物資をビルマ軍政に供給した中国は、ガス田、鉱物、木材事業などに触手を伸ばし、利益を上げると同時に軍政の最大スポンサーの役割も果たしている。言うなればビルマ軍政はアメリカや西欧が不在でもグローバル時代、世界資本主義体制の恩恵をそれなりに享受しているのだ。その渦中で経済封鎖やビルマ軍政指導部の自国内資産凍結などの強硬手段をとってきたアメリカや西欧諸国には、愉快なはずがない。
»サイクロン、ナルギスがイラワディ川のピアポン周辺に位置する住宅街を一掃した傷跡が生々しい。
米軍艦の上陸の試み、また一方的な空中投下方式の救援など、アメリカ側からもたらされるビルマ罹災民の救援方式は、あえて国際法を持ち出さないにしても、戦争を辞さないという覚悟でなければ試みることができない方法だった。アメリカは人道を前面に出しての救援ではなく、恐喝をしていた。アフガニスタンとイラクの場合でもわかるが、条件さえ揃えばアメリカが軍事的侵攻を厭う理由はそれほどない。抜け目のないビルマ軍政は、アメリカの侵攻に備えて首都をラングーンから内陸深くに位置するネピドーに移転した。西側メディアはこれに対して、数字で運を計るのが好きなビルマ軍部のタン・シュエとその仲間たちが迷信を理由にしていることを皮肉った(タン・シュエは占星術を妄信していると言われている)が、ビルマ軍部が現在のビルマで最高のエリート・グループであることは自他が認めている。当然、‘軍人’であるからには軍事分野では専門家だ。こんな事情ならば、軍艦を押し込んできたときにはお互いにわかっていながら賭場だと言い張るしかなくなってしまう。どちらも人道主義や援助には関心がないことに違いはないのだ。
ならず者のビルマ軍政と、やはりならず者の西側帝国主義との間で血を流しているのはビルマの民衆だ。そしてその一方に、アウンサンスーチーに象徴される無気力な民主主義民族同盟(NLD)が存在する。アウンサンスーチーとNLDは、アメリカやヨーロッパが全幅の支援を惜しまないなか、この20年余りを耐えてきた。ビルマ軍政の野蛮な弾圧の下、それでもアウンサンスーチーがラングーンの自宅でどうにか生きながらえており、またNLDが組織を形だけでも維持しているのはそんな理由からだ。アウンサンスーチーはとにかく自分を支持するアメリカや西欧の利益を代弁してきた。ビルマに対する経済封鎖を根気強く主張してきたのが、アウンサンスーチーとNLDだということを思い出す必要がある。
真っ先に袖をまくりあげた者たち
アウンサンスーチーが自宅に軟禁されている間、事実上ビルマの民主化運動の大衆的根拠は荒廃し、絶滅に近い状態に陥った。2007年8月の民主化デモが僧侶たちによって触発、拡散した現実は、今のビルマには僧侶しかデモを主導する勢力がいないということを意味している。1990年代の民主化運動を主導した学生勢力は、今は抜け殻しか残っていない。
「ビルマの大学は、今では通信大学のようです。90年代の民主化運動以降、そのように変わりました。大学生になっても学校で授業を受けることがほとんどありません。家で勉強する時間の方が長いくらいです」
このように学生運動の拠点である大学を抜け殻にしてしまうほど、ビルマの軍事政権は野蛮だ。そのおかげで学生運動は消滅した。労働者、農民、貧民など基層民衆の運動は言うまでもない。今存在するのは、ビルマの光が統率する偉大な軍政による唯一の前進のみだ。その一方で外部勢力の支援を受けるアウンサンスーチーとNLDだけがどうにか存在するものとして数えられるのみだ。ラングーンで2人のNLD関係者に会うことができた。そのうちの1人は1997年の選挙で議員に選ばれたが、その後6年間は獄中で苦痛を味わい、もう1人も鉄窓の中で6年間過ごさなければならなかった。1人がこのように語った。
「このような状況でどうしろと言うんですか。何ができるのか教えてください」
彼は逆にこちらに畳み掛けてきた。ビルマは盗人が猛々しい国になってしまった。しかしまた別のNLDの構成員は、まったく違う言葉を漏らした。
「私はアウンサンスーチーとNLDに対する希望を捨てました。彼らは何もしていません。ただ待っていると言うだけです。もううんざりです。でも私には希望があります。我々が民衆に近づき、何事も彼らと共にすべきです」
»強風で電信柱が倒れた通りで救援物資を待っている罹災民たちが、延々と続く列を作って座っている。
彼が見つけた希望とは、ナルギスが残した残酷な傷跡に立ち向かう民衆の姿だった。
「誰も政府の助けを望んだり、待ってはいませんでした。誰もが翌日から腕まくりをして吹き飛ばされた屋根を葺き、倒れた壁を直して路地の電信柱を立てました。電信柱の電線はいつになるかわかりませんが、それでも人々は倒れた電信柱を立てたんです。何というか、それはまるで‘コミューン’を見ているようでした」
沈黙に閉ざされた民主化抗争1周年
彼は抗争で民衆の偉大さを感じたと言った。彼らのところに行って手をつなげば、何でもできそうな気がしたとも言った。彼が感じたという覚醒を、自発的な復旧事業が行われている現場で私もすぐに理解することができた。アウンサンスーチーをひたすら待ち続けるだけのNLDのようなラングーンの老衰した外圧依存のエリートたちは、軍政の圧倒的な弾圧を言い訳にしながらも、彼らの暴力的な愚民政治に同調しているのだ。彼らは西側の封鎖によって軍政が弱体化し、西側からの絶大な支援の下で権力が自分たちの手に入ってくる‘その日’を待っているだけだ。どうかすれば彼らが首を長くして待っている‘その日’がいつかは来るかもしれないが、‘その日’とはビルマ民衆の‘その日’ではなく、貪欲なアメリカや西欧資本の‘その日’になるだろう。
ビルマの極端な低開発状態と経済封鎖は、軍政に完全な軍部独裁統治をもたらしていた。西側の経済封鎖は、天然資源に依存する軍政には何の打撃も与えず、ただ民衆の苦痛のみが倍加している。さらに深刻なのは、経済封鎖により深化する軍事的弾圧や経済的貧困、情報の閉鎖が民衆の力による組織化と発展への障壁となっているという点だ。ビルマ軍政の終息は、ビルマ民衆が自らを組織できたときに到来するだろう。だが西側の経済封鎖に対するNLDの盲目的な支持は、その道を塞いでいる。
野蛮な軍部独裁統治の抑圧の下で僧侶たちが先頭に立ってビルマ民衆の自発的闘争意志を証明した2007年の民主化抗争が、9月29日で1周年を迎えた。その1年はまた前と同じ沈黙の1年だった。抗争が終わらないようにするには、ビルマ民衆自らの組織化された声がたとえ小さな声であっても水田やヤシの木々や密林から上がらなければならない。国際社会の良心は、ただその響きに歩みを合わせて鼓動しなければならないだろう。
ラングーン・イラワディ(ビルマ)=文章・写真/ユ・ジェヒョン(小説家)