[アジアの今日を歩く]
悪辣なハリケーン、さらに悪辣な政府
[ハンギョレ21 2008.09.26第728号〕
ビルマの水害現場イラワディ・ルポ①-住民たちが死に直面しつつあるなか、軍や警察はその手を阻んだ
ビルマ(現ミャンマー)への道のりは平坦ではなかった。バンコク発ラングーン(現ヤンゴン)行きの航空券4枚は紙くずとなり、ゴミ箱に押し込まなければならなかった。そのうちの2枚は予期しなかったサイクロン「ナルギス」のせいだった。しかし紆余曲折の末、カトマンズのミャンマー大使館でビザを取り、再びバンコクを経由して5月にサイクロン「ナルギス」により満身創痍となったラングーンに到着することができた。災害から20日余りが経っていた。空港から都心へ行く道には、兵士を満載した軍用トラックと完全武装した軍人たちがびっしりと並んでいた。
»ラングーン市民は電気が切れたためにランプを使っているが、復旧したのは寺院のみ。サイクロンの被害に遭ったラングーンのある家族。
寺院のみ復旧作業
「そうですか?妙ですね」
到着してすぐに会った民族民主同盟(NLD)関係者のAさんは、‘初耳’だという反応だった。昨年10月の僧侶たちによるデモも流血鎮圧後にうやむやとなり、悲しいことだがラングーンでは目を皿のように見開いても武装した軍人が出現する理由は見つからないと言った。‘妙’の正体はすぐに把握することができた。私が到着した日は、たまたま潘基文(パン・ギムン)国連事務総長がナルギス救護支援を協議するために、新首都のネピドーで国家平和開発評議会(SPDC)のタン・シュエ議長に会う日だった。空港路に並ぶ兵隊は、国連事務総長に対するビルマ軍政の偏屈な歓迎式だった。
それでなくても異常な国ビルマでは、実に異常なことが起こっていた。国連をはじめとするいわゆる西側は、ナルギスがもたらした悲惨な災害を救援するために脅迫と恐喝、そして査定を使い分ける一方、ビルマ軍政は後ろ手を組んだまま国連事務総長に武力示威を行っていた。
ビルマでもかつてない規模の大災害であるサイクロン「ナルギス」が残した傷跡は、20日余りが過ぎたラングーンにもありありと残っていた。市内の大通り沿いには一抱えの木が根をむき出しにして倒れている姿があちこちで見られ、電信柱は立っていても電線のないものが目についた。大通りの裏側は、事情がさらに悪かった。倒れた電信柱を立てているのは住民たちだった。ラングーンの象徴であるシュエダゴン・パゴダの向かい側にある住居地で電信柱を立てていた住民は、「政府が電線をつなげると言ったが、いつになるかわからない」と話した。ラングーン郊外に住むウタンソエ(31)さんは、まだ電気が通っていないのでロウソクとランプで過ごしていると話した。しかしシュエダゴン付近のある寺院では、境内の倒れた木々を取り除くために軍や警察、そして軍用トラックが動員されており、大通りの電信柱と電線復旧事業には、重装備や人材が導入されていた。ビルマ軍政は権力を維持するために国民ではなく仏心にすがっていると言われているが、その事実を証明しているようなものだ。
ビルマ軍政の広報紙である『ミャンマーの光』(TheLightOfMyanmar)は連日、国家平和開発評議会のタン・シュエ議長と軍政の将軍たちが災害地域を訪れたという記事と写真で埋め尽くされていたが、ラングーン市民は軍事政権が自分たちを助けてくれるだろうという期待をとうの昔に捨ててしまったかのように見えた。一般人を対象にした軍政による災害復旧事業は、誰もが口をそろえて‘無’に近いと言った。
ビルマ史上で最大級の災害に見舞われたイラワディ・デルタ地域に入るために、到着した初日から東奔西走した。サイクロンが通り過ぎてから3週間が経っていたが、ヤンゴン川を渡ることからして困難だった。ラングーンの民間無償医療機関が日曜日に診療をするため災害地域に行くという噂を聞き、同行させてもらえるように頼んだが、お互いに困惑することだらけだった。
「行くことはできるでしょうが、問題になれば残った私たちが・・・」
保安隊の世話になりかねないということなので、これ以上お願いすることができなかった。誰かの紹介を受ける方法を考えた。方法を変えてイラワディ・デルタの上に位置する西部のパテンに行った後、南進する計画を立てたが、それも望みはなかった。
「今は外国人にチケットを売っていません」
「私の外見はビルマ人のように見えるでしょう?」
「パテンに行くまでに検問所が何カ所もあるそうですが・・・」
彼は私が日焼けしているのを見て「ビルマ人のようにも見えますね」と言ったが、「あなたはそんなに運いいのですか?」という表情になった。考えて見ると、今回の旅行で私はそれほど運がいい方ではなかった。
そんななか、ビルマ軍政と対決する最高の方法は‘お金’だというアドバイスを聞いた。
「ワイロを使いますか?」
「あの人には有り余るだけのお金があるのに・・・。お金のためなら危険を顧みない貧しい人を見つけてください」
罹災民キャンプは戦時用
彼によると、どうせ外見はビルマ人で通しても問題はなさそうだから、しゃべらなければ大丈夫だということだった。その代わりに話してくれる人が必要だが、問題になればその人の身にも危険が及びかねないので、危険手当で解決しろということだった。
沈黙の誓約を胸に抱いて5月25日と26日の2日間、イラワディに潜入した。濁流がうねっているヤンゴン川を渡るフェリーに乗り、西岸のダラに到着した。罹災民を収容したというダラの仏教寺院は、ただただ物寂しかった。しばらくして現われた幼い僧侶が、罹災民たちは2週間前に近くのダラ高校へ移っていったと話した。しかし学校もガランとしているのは同じだった。一時は300人余りの罹災民がいたが、今は4世帯のみが教室の一つに集まっていた。しかしダラ周辺地域だけでも2000~3000人の罹災民が発生したと言われている。
»ビルマの首都ラングーンの中心街にあるシュエダゴン・パゴダ付近では、軍人や警察などを動員して災害復旧作業を進めている。
「6月に新学期が始まるので空けてくれと言われ、みんな故郷に帰りました」
ウ・フラ・アウン(59)さんはこの3週間、政府から4回米と豆を1握りずつ配給されたのがすべてだったと話した。彼の家族は月末までに学校を出なければならないが、帰ってから家をまた建てようとは思えず、そのまま留まっていた。首都であるラングーンから程近いダラの罹災民収容所はこんな事情だった。
検問所を通過するのに絶対に有利だという理由で、オートバイの後部座席に乗ってラングーン地域から南部のクンヤンゴンへ向かった。クンヤンゴンは5000人余りの死亡者を出したサイクロン被害のもっともひどかった場所の一つだが、そこへの道中では風にしなるヤシの木以外は無傷の木がまったく見つからないほど被害は深刻だった。コンクリートの電信柱は一様に真ん中が折れていたり、倒れて太い高圧電線が路上に危なっかしく伸びていた。子供たちは倒れた電信柱にかかっている1.5cmの太さの送電線で作ったブランコに乗っていた。寺院の仏塔は、ダラ付近では尖塔の装飾が折れているだけだったが、それ以降は尖塔が根元から折れている様子が見られた。道路周辺の家々はどうにかまともに見えたが、それは竹で骨組みを立ててヤシの葉で壁と屋根を葺いた家だったので、すぐに復旧できたということだった。住民たちがみんな路上に出て通り過ぎる車に顔を向けている理由は、たまに現われる救援車両が投げてくる衣類や食品のためだった。
「ラングーンから個人的に救援物資を渡すために車に乗って来る人々もいるし、企業から来る場合もありますよ」
言うなれば非政府救援だった。道路の周辺で子供を抱いて立っていたある女性は、住民たちが列を作るかのように路上に立っている理由をそのように説明しながら、政府の救援物資や外国から来た救援物資はまだ見たこともないと話した。
路上ではよく軍人や警察官が陣取っていたが、彼らの任務は出入りを統制し、いわゆる秩序を維持することであり、救援とは何の関係もなかった。ラングーンからクンヤンゴン間に唯一あった政府による罹災民キャンプに行ってみた。15のテントが建てられているキャンプには、1つのテントに1世帯ずつ計15世帯が収容されていたが、そのテントは戦時用のものばかりだった。政府の罹災民キャンプは軍人が警備に当たっていたが、救援物資を渡すという理由でキャンプに足を踏み入れることができた。私の貧しいガイドは、それさえも将校がいないから可能なことなのだと耳打ちした。道路の内側にある村の寺院にもやはり罹災民は収容されていたが、ダラの寺院と同じようにガランとしていた。しかしそこには200人余りの罹災民が寄り添っていた。
「人々は朝になると出て行き、日が沈むまで戻ってきません」
寺院には居場所を提供する以上の余裕はないので、人々は日が昇ると各々が出かけて食糧を手に入れたり、路上で救援物資を待ち、日が沈むと寺院に戻るというのが若い僧侶の返事だった。まだ若いのに生気がないように見えるその僧侶もまた、この3週間は政府や外国からの救援物資を一度も見ていないと話した。
「軍人や警察が時には救援物資を押収」
ラングーンにもどる道すがら、これまで3回にわたってイラワディの災害地域へ個人的に救援物資を届けたという中年のビルマ人事業家に会った。
「検問所の警察や軍人たちは自分たちが分配するから救援物資をよこせと言うんです。でもあの人たちに渡してしまえば、実際に罹災民に行き渡る分はなくなるというのが公然の秘密になっています。私は今まで一度も彼らに物資を渡したことがありません。直接入って物資や食料を渡します」
「個人的な救援物資の搬入を邪魔されたりはしませんか?」
「最近は邪魔されたりはしません。でも時々物資を押収するという話を聞きました。数日前、1トントラックに救援物資を載せてイラワディに入ったある会社の物資を、軍人たちが押収したそうです」
イラワディ・デルタ地域の下流にあるビアポガン付近の事情は見るに忍びないものだった。道路ではさらに多くの人々が陣取っており、川辺では漁船がひっくり返ったり、陸に上げられていた。支流のノッシヤントの川辺にある村の寺院で出会った罹災民は、3200人の地域住民のうちの191人が亡くなり、100人余りが行方不明になったと語った。彼はあのような強風は生まれて初めてだったと頭をしきりに振った。亡くなった人々は津波のように押し寄せた川の水で溺死したり、山に避難したところで毒蛇に噛まれて死んだそうだ。
ラングーン・イラワディ=文章・写真/ユ・ジェヒョン(小説家)