自己肯定感の欠如/高橋哲哉
前回から私は秋葉原の通り魔殺人事件の考察を続けている。前回は日本の若い世代が置かれているワーキングプア(どんなに一生懸命働いても貧困状態から脱することができない階層)の問題、未来に希望を持てない過酷な労働環境の問題があるという点を指摘した。しかし、私はこの問題の背景にもう一つ、日本の若い人に自己肯定感の欠如というさらに深刻な問題があると考える。容疑者である加藤智大の場合、それは学校や家庭を含む教育の問題として明白に表れている。
加藤は中学校までは成績が良く、青森県のエリート高校に入学した。この段階まで、彼はいわゆる‘勝ち組’にいた。この‘成功’は、厳格で教育熱の高い両親の下で必死に‘いい子’であることを演じた結果だった。
弟の証言によると、特に母親は学校の成績に敏感で、子供に完璧を求めていたそうだ。テストで成績が良くなければ、加藤を神経質に非難し、また‘男女交際は一切認めない’と言うなど抑圧的な存在だった。そして高校進学後、加藤の成績が学年で300番台をさまようようになると母親の関心は加藤の弟側に移った。加藤は携帯メールにこのように書いた。「県内トップの高校でビリだった俺。もう意欲もない。親の期待と金はみんな弟に」
成績が落ちると「親の期待と金はみんな弟に」向かったという部分に、親子関係のあらゆることが表れているように見える。加藤に対する親の‘愛’は、成績優秀という条件付だった。成績が優秀な間、親は加藤を‘愛’したように見えるが、それは加藤の‘成績’に対する‘愛’に過ぎず、加藤という人間に対する、子供の存在それ自体に対する無条件の‘愛’ではなかった。
親が考える基準に合う子供だけを肯定し、適合しなくなると否定する。おそらく加藤はこの世に生まれた瞬間から、将来優等生になるだろうという親の期待を受け、その限度内でのみ愛されていたのではないだろうか。ここには生まれた子供に対する、命に対する、無条件の肯定がない。
加藤はこれに素早く気づいた。彼は「親のエゴが子供の夢を搾り取っている」という書き込みを残した。高校を卒業して親の下を離れてからは「心の底から親を恨んでいたようだ」という同僚の証言もある。
この問題が加藤智大の家庭だけの問題ではないということは言うまでもないだろう。学校の成績によって子供を絶えず評価し、より高いレベルの学校に進学することを至上価値として、それによってのみ子供の将来と‘より良い’生活が保障されるという価値観は、戦後日本の教育を一貫して支配し続けてきた。現在もますます強まるばかりで、弱まる気配はない。
加藤智大の両親の子供に対する態度は、このような社会の価値観により醸成されたものだ。日本の学校システム全体がこのような教育観により動いている。私自身、その頂点に位置する東京大学の教員として、このシステムに関与している。このような教育観に徹底して支配された結果、日本の教育から教育のあらゆる根源的前提が失われているのではないかと思わざるを得ない。その前提というのはすなわち、子供一人一人がその存在を他人から無条件で肯定的に認められ、それによって自分という存在を肯定できるようになることだ。
高橋哲哉/東京大学教授・哲学
(ハンギョレ新聞 2008年10月03日)