‘通り魔殺人’に共感する日本の若者たち/高橋哲哉
前回に続いて今回も通り魔殺人事件と関連したことを書く。東京秋葉原の‘歩行者天国’に25歳の若者、加藤智大がトラックで進入し、4人をひき殺したうえに3人をナイフで刺し殺した事件だ。
この事件の特異性は、誰が見ても許せない凶悪犯罪でありながら、同じ世代の若者の相当数が「加藤の気持ちはわかる」というなど容疑者(犯人)に‘共感’を表していることに現れている。最近、日本では凶悪犯罪が増加しているという意識が拡散(実際の統計上では増加していない)しており、治安上の不安が高まっているため、殺人事件の容疑者、特に若い人に対してメディアやインターネットなどで猛烈な非難攻勢が行われるのが普通だ。ところが今回はむしろ、加藤に‘共感’する若者が多い。
なぜなのか?日本では1980年代後半のバブル景気が崩壊した後、長期不況の企業が人件費を抑制し、また新自由主義政策導入により雇用制殿規制緩和を進めたため、非正規職労働者が大幅に増えた。かつて日本社会は終身雇用と社会保障の恩恵拡大により貧困問題が解消され、‘1億総中流社会’という自己意識が存在したが、最近10年余りの瞬きするほどの間にそれは崩れ去った。
今日では正規雇用の‘勝ち組’と非正規職の‘負け組’に分け、‘負け組’はいつまでも貧困から脱出できない‘格差社会’に変わったという現実認識が広がっている。特に1990年代の‘就職氷河期’に職を得た若者は、‘失われた世代’とも呼ばれるが、その相当数が将来の展望がないフリーター(フリー+アルバイターの合成語)、派遣労働者などをして日々苦しい生活を耐えながら鬱憤を抱え込んでいる。
加藤智大はまさしくそのような若者の一人だった。彼は本州最北端の青森県出身で、東京の派遣会社に登録され、そこから派遣されて静岡県の工場で働いていた。事件直前に工場から一方的に解雇されることを恐れ、自分が非正規労働者として企業の都合によって‘使い捨てられる’ことに強い反感を感じていた。彼が事件の直前に残したインターネット掲示板の書き込みには、格差社会の底辺で苦しむ若者の不満が記されている。「高校を卒業して8年、負けっぱなしの人生」、「みんな俺の邪魔をしている」、「あ、住所不定無職になったのか。ますます絶望的だ」、「そんなわけで人が足りないから来いと電話があった。俺が必要だからじゃなくて、人が足りないからだ。誰が行くもんか」、「勝ち組はみんな死ねばいいのに」、「みんなからバカ扱いされたから車で轢いちゃえばいい」などなど。
3月に茨城県土浦市で通りすがりの8人を殺傷した通り魔事件の容疑者も、加藤と同じ世代である24歳のフリーターだった。彼らはおそらく現在の日本で‘ワーキングプアー’と呼ばれる若者たちと、ある感覚を共有している。それは社会から徹底して‘排除’されているという感覚であり、社会的認定だけでなく‘人間の尊厳’さえ奪われ、他人から肯定されることがないために自分を肯定することができないという感覚だ。
そのため多くの若者たちの‘共感’を得たのだろう。トラックとナイフで7人を殺害した男に‘共感’し、‘気持ちがわかる’という若者たち。日本のメディアはこれらの若者たちを‘忌まわしい’存在として認識し、‘ややもすると切れやすい’若者たちに対する不安感をますます増幅させている。しかし若者たちをそのような状況に追いやったのは、実は自分たち自身である大人たちであり、日本社会が進めてきたこれまでの労働政策だったということを、今本当に認識しなければならない。
高橋哲哉/東京大学教授・哲学
(ハンギョレ 2008年8月10日)