通り魔事件と携帯電話/高橋哲哉
日本では6月8日に起きた「通り魔事件」の衝撃が未だに静まっていない。その日の昼間、東京秋葉原の通りで20代の男性が日曜日の‘歩行者天国’を満喫していた人々に向かってトラックで突進し、3人をひき殺した。運転していた男性は、車から約100mほど駆け抜けながら通行人や警察官をナイフで次々に刺し、合計7人を殺害して10人に重軽傷を負わせた。25歳の男性、加藤智大容疑者が現行犯で逮捕されるまでの数分間の惨劇だった。日本では今年の3月に茨城県土浦市で24歳の男性が通りすがりの8人を殺傷した事件、JR岡山駅で18歳の少年が男性を線路に突き落として殺害した事件が連続して起こっている。犯人たちは「殺害する相手は誰でもよかった」と言って世間を騒がせたが、今回の容疑者も「人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」と陳述した。
恨みや憎悪を感じる特定の相手に対する殺意ではなく、社会全体に対する敵意を強く感じながら、それを一度に爆発させた犯行のようだ。今の日本社会の中で、特に若者たちの間では、社会全体に対するこのような不満や反感が溜まっており、いつ爆発してもおかしくない状態にあると思われる。
「秋葉原で人を殺します。車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います。みんなさようなら」(5時21分)、「時間だ。出かけよう」(6時31分)、「これは酷い雨全部完璧に準備したのに」(7時30分)、「神奈川入って休憩。いまのとこ順調かな」(9時48分)、「秋葉原ついた。今日は歩行者天国の日だよね?」(11時45分)、「時間です」(12時10分)。容疑者自身の携帯サイト掲示板にこのような文章を残した。
私自身は、この事件で携帯電話に対してもっと忌まわしく感じた点がある。現場に偶然いた若者たちが携帯電話を取り出し、事件や血まみれになった被害者の姿をカメラに収めようと必死にシャッターを押したことだ。「今とんでもない事件が起きている!すぐメールを送るから!」このような興奮した声がキャッチされたようだ(文芸春秋6月19日号)。
目の前で悲劇が起きたのに、自分はただの観客であるかのような気分で身の毛もよだつドラマを楽しもうということなのか?私がこれを見て思い出したのは、1995年に東京で起きた地下鉄サリン事件だ。カルト宗教集団‘オウム真理教’の信者たちが教祖の指示に従って5つの地下鉄車両内でサリンを撒き、12人が死亡し、5000人以上が重軽傷を負った事件だ。その現場に偶然いた作家の辺見庸は、倒れて苦しんでいる被害者に視線を投げかけながらも平然と過ぎ去っていく人々の群れにぞっとしたそうだ。事件は朝8時頃、混雑した通勤時間帯に起きた。スーツを着たサラリーマンたちは、日常のリズムが乱れることを嫌い、勤務先に向かって歩き続けたのだろう。目の前に被害者が倒れて呻いている。それでもまったく無関心に自分の仕事を黙々と続ける人々。そればかりでなく、携帯電話のカメラでその光景を友人に自慢げに送って喜んでいるようにしか見えない人々。これを哲学者テオドール・アドルノが目撃していれば、「それはすべて市民社会が抱えている冷酷さだ。その結末は、アウシュビッツだ」と言うかもしれない。
韓国では、米国産牛肉の輸入問題を契機に李明博(イ・ミョンバク)政権を批判する大衆運動が高まるなか、中高生が携帯電話のメールで参加を訴えながら運動に立ち上がっている。同じ携帯電話のメールでも、日本とは完全に違う光景を見せているようだ。
高橋哲哉/東京大学教授・哲学
(ハンギョレ 2008年7月8日)