[済州4・3事件60周年]
被害認定を受けられないまま死ななければならないのか
襲撃・拷問されて一生残る障害を負い、行政訴訟では「4・3後遺障害者」として認定されず
▣済州=文・写真/ホ・ホジュン記者(ハンギョレ地域チーム)
「最初は警察官が『山に米をやったのか?』と聞くので『やってない』と言った。それなのに殴りはじめたんだ。殴るのも疲れるから、電線を両手の親指に巻きはじめた。電線を巻いて昔の受話器みたいに回すんだ。それを回すとしきりに眩暈がしてくらくらして。気を失うと、やったと認めて自分たちで勝手に書かれてしまうので、『やった』とも『やってない』とも言えずに・・・。だから一日に数百人が軍事裁判にかけられて仁川刑務所に送られたんだ」
△4・3当時、竹やりで脊椎を突かれたコ・スノさんは、脊髄骨が突き出た状態で過ごしてきたが、4・3との関連性を立証できず、4・3後遺障害者として認定されていない。コさんは当時の治療記録を持っておらず、精密診断を受けるお金もない。
歩くたびにうずく銃傷部分
済州市翰林邑金岳里のヤン・イラ(79)さんの人生は、分断の韓国現代史を凝縮した小説のようなものだ。4・3事件で村全体が炎に包まれ、市内の親戚の家に身を寄せていたヤンさんは1948年12月頃、右翼団体に捕まり、山村出身という理由のみで‘パルチザン’と見なされ、暴行されたうえで警察に引き渡された。その後、仁川刑務所収監、朝鮮戦争勃発、人民軍生活、智異山への逃避、巨済島収容所生活、韓国陸軍入隊という波乱万丈の人生を送った。当時、右翼青年たちや警察から受けた拷問により、腰に大けがを負わされたため、今ではちゃんと動くこともできない。
ヤンさんは当時の拷問後遺症で苦痛を受けており、2004年総理室傘下の済州4・3事件真相究明および犠牲者の名誉回復委員会(以下、4・3委員会)に後遺障害者申請をしたが認証されず、昨年10月に開かれた再審委でも同じ結果だった。
済州4・3事件が起きてから60年。‘苦痛の島’で‘和解’と‘相克’を超えて‘平和の島’へ向かおうという掛け声がこだました。しかし60年の歳月の周辺をぐるぐる廻り、今は忘れられることも一つの苦痛をさらにはっきりと記憶して生きていく彼らがいる。‘不認定4・3後遺障害者’たちだ。
3月22日、済州市旧左邑東福里で会った済州4・3犠牲者後遺障害者協会長のコ・テミョン(78)さん。彼が自分の左のふくらはぎを押さえる皮膚がぼこぼこにへこんだ。1ヶ月に1回、鎮痛消炎剤や湿布を貼って物理治療を受けに済州市内の総合病院へ行く。年を取るにつれ、少し歩いただけで撃たれた傷跡が腫れてずきずき痛んだ。彼は1948年7月30日、警察が撃った弾に当たった。弾は幸い骨をそれて右側から左側に貫通した。警察署へ連行された彼は棒で腰や腕、脚を殴られるなど、さまざまな拷問にかけられた。電気拷問で何度も何度も気絶した。その後も毎日毎日、身の危険を感じながら生きていたコさんは、朝鮮戦争が勃発した年の8月3日、‘無敵海兵’神話となった海兵隊3期に入隊し、仁川上陸作戦に参加した。入隊しなかったとしても、予備検束で死んでいただろうと彼は語った。
しかし、コさんは政府が認定した後遺障害者ではない。昨年、4・3委員会に再審議を申請する際、‘左側下腿部銃傷瘢痕、腰背部多発性擦過傷’という病歴と「4・3事件の後遺症による病症で持続的な薬物治療および物理治療を要し、経過観察を要する」という‘今後の治療に関する意見’が添付された済州大病院の診断書まで提出したが、不認定となった。
また別の不認定者、コ・スノ(81/女性/済州市三徒洞)さん。4・3当時、武装隊の襲撃で脊髄や耳、脇腹などを竹やりで突かれて全身を殴られたコさんは、昨年12月に行政訴訟を提起する記者会見の席で、他人には見せたくない傷を示した。彼女の脊髄骨は突き出ていた。竹やりで突かれた腹部の傷のため、一生まっすぐに横たわれない苦痛も訴えた。しかし、コさんは「診断した病院が自然発生的疾患と判断ししたため、認定できない」という理由で不認定になった。
△コ・テミョンさんは‘4・3事件後遺症による病症’という病院の診断書まで提出したが、後遺障害者として認定されなかった。コさんは行政訴訟を準備している。
MRI•CTなどの費用のために精密検査をあきらめる
2004年に申告した184人のうち、4・3委員会が後遺障害者に認定した人は155人にすぎない。残りの29人は不認定とされた。このうち19人が再審議を申請したが、昨年10月に再び不認定となった。昨年、再審議を申請する過程では、短い診断期間や再審議にかかる費用も問題になった。殴打や拷問被害のように外相が残っていない場合、その後遺症を60年が過ぎた時点で肉眼検査やレントゲン検査のみで判別することは容易ではない。4・3委員会が求める水準の後遺障害と‘4・3との関連性’を明らかにするには、精密検査が必要になる。しかし、4・3事業所が後遺障害再審議申請にかかる診断費用を補助するために準備した2500万ウォンは、非給与項目には支援されなかった。核磁気共鳴装置(MRI)やコンピュータ断層撮影(CT)費用などが負担となる再審議申請者たちのうち、精密診断をあきらめる事例が続出した。
「個人病院でもない国立大病院で専門医の診断書を得て申請しても、後遺障害として認定されなかった。それすらも認定しないのなら、問題があるのではないか。お金をもらうために後遺障害者として認めてくれと言っているのではない。4・3後遺障害として認定されなければ、4・3被害者ではないということなのではないか」コ・テミョンさんの言葉には、60年の歳月の怒りと恨が込められていた。後遺障害が認められない状態で死んでしまえば4・3犠牲者に選定されることも永久に不可能になってしまう。二度殺されるようなものだ。
4人は不認定の状態で他界
現在、彼らが唯一期待しているのは行政訴訟だ。昨年、再審議で不認定となった19人のうち、コ・テミョンさんなど13人が12月10日にソウル行政裁判所に訴訟を提起し、今年の1月から裁判が始まった。80代に差し掛かった彼らの叫びは朴訥だ。「政府に望むことは一つしかない。60年が過ぎた。4・3被害者として認めること、それだけ。私たちは4・3を体験した、特設の当事者であり、証言者でもある。
4・2後遺障害の体にななったが、不認定となった29人のうち、キム・ヨリャンさんなど4人はすでに死亡している。
4・3に敏感な済州島の民心
李明博政権発足後、‘薄氷を踏んだ状態’
済州島から選挙に出る人は、必ず2つのことを公約や政策に入れる。ミカン政策と4・3に対する見解だ。普段、済州島民たちは4・3の話を頻繁にするわけではない。しかし、4・3を歪曲したり、揺るがす外部からの動きがあれば、島民たちの世論は収拾できない方向に流れる。
今年の1月、引受委員会が4・3委員会の廃止を取り上げると、世論が急激に悪化した。ハンナラ党の総選挙候補者さえ「全身で4・3委員会廃止を阻止する」と立ち上がるほどだった。
4・19革命以降、一角で4・3真相究明運動が起こりはしたが、直後に起きた5・16クーデターで議論自体がタブーとなった。その後、1980年代後半までかなりの間、沈黙しなければならなかった。生き残った‘4・3の子供たち’は連座制の鎖に繋がれ、士官学校入学や警察官採用はもちろん、一般私企業の就職にも不利益を被った。済州4・3犠牲者後遺障害者協会長のコ・テミョンさんも朝鮮戦争に参戦までしたが、警察官になろうと警察学校に入学し、訓練を受けている途中で‘逃避者家族’という理由で退学させられた。タブーの時期に小説家ヒョン・ギヨン(玄基栄/元韓国文化芸術院長)氏は、北村里(プッチョンリ)虐殺事件を素材にした『順伊おばさん』を書き、保安司に連行されてひどい拷問を受けた。
1988年5月、ヒョン・ギヨン、ムン・ムビョン(済州伝統文化研究所理事長)、コ・ヒボム(元ハンギョレ新聞社長)、カン・チャンイル(国会議員)氏などが集まって済州4・3研究所を設立し、本格的な研究活動を始めた。さらに地域メディアが積極的に4・3報道を始めた。2000年に済州4・3特別法が制定され、盧武鉉大統領は2003年10月に過去の国家権力の乱用を公式謝罪するに至った。
しかし、李明博大統領の当選以降、状況が変わった。依然として4・3は薄氷の上を歩く状況が演出されている。一部の保守勢力が4・3を‘反乱’と規定しようと露骨な動きを見せているからだ。
60周年が与える意味は特別だ。そのため、済州の人々は4月3日に済州市奉蓋洞の4・3平和公園で開かれる慰霊祭に李大統領が参列するかに強い関心を示している。新しい政府の4・3政策を測る鍵となるからだ。
『ハンギョレ21』2008年04月03日 第704号