沖縄から消えた朝鮮人たち
宮古島や慶良間諸島で強制労役に苦しめられた徴用者や慰安婦たち-戦争末期、劣悪な状況に追い込まれ、秘密維持のために虐殺も
▣ 沖縄県宮古島・慶良間=文・写真/ソ・ジェチョル緑色連合局長
沖縄を中心にした太平洋の亜熱帯の島々は、“南西諸島”と呼ばれる日本の代表的な休養地の一つだ。特にサンゴの海は世界的にもその規模と美しさを誇っている。しかし、60年前の沖縄-太平洋戦争は、この自然に恵まれた島々を死の奈落に追い落とし、今でもその傷の一部を残している。深い海に沈んだ戦争の傷の中には、朝鮮から強制的に連行された軍属労務者や慰安婦たちがいる。彼らは人間以下の待遇を受け、戦争の最前線で消耗品のように強制労働に苦しめられ、戦争の最終段階では米軍の爆撃と日本軍の集団虐殺により死んでいった。沖縄県の離島地域である宮古島や慶良間諸島は、そのような歴史を持つ代表的な場所だ。
△ 「玉砕作戦」の現場である宮古島の地下トンネル型砲台
「韓国政府の調査に協力する」
宮古島は沖縄南東の海の中でも独特の文化や風光で有名な場所だが、かつては日本軍の熾烈な作戦地域だった。宮古島の北東側の海岸に位置する福山は、1944年から始まった大規模な“玉砕作戦”の現場だ。沖縄から約300km南側に位置する宮古島は、この作戦の主要拠点として島全体にわたって各種の軍事施設が建てられた。この作戦に動員された朝鮮人青年の数は約1万人と言われている。これらは軍属労務者として徴用され、各種の地下壕や陣地の工事に動員された。特に地下トンネル工事、神風特攻隊発進基地工事、中・大型大砲構築用基地工事は、文字通り命をかけた作業だったと地域住民は証言している。
フクシマ地下トンネルは日本軍37連隊の最後の防御線だった。海に向かって地下にトンネルを掘り、造成した銃火器砲台で海から押し寄せてくる米軍を相手に最後の決戦を準備していた宮古島の中枢的な防御施設だった。高い山のない地形的特性により、海岸の丘陵性山地や野山にトンネルを掘り、そこに大型砲を配置する方式だったが、これは最近公開された『父親たちの星条旗』に登場する場面でもある。150mmを超える大型砲を配置できるほど、日本軍の地下トンネルの中でも最も大きな規模に数えられるという。
トンネルの一部区間は内壁をコンクリートで覆っているが、60年も経った今見ても表面がなめらかだ。工事に動員された朝鮮人軍属労務者たちは、どれほどつらい作業をさせられていたのかを推し量ることができる。当時、トンネル作業はつるはしやハンマー、素手で行われた。機械を使えば米軍に見つかってしまうからだった。
宮古島は亜熱帯気候で真夏には気温が40℃を超え、4月から10月までは30℃を下回ることはまれだ。このような場所でトンネルを掘る工事は死の労役だった。この地域の教員団体と歴史学者たちが共同で発刊した宮古島歴史報告書を見ると、当時の強制労働の状況が記録されているが、戦後の彼らの生死については「死んだであろう」という推定のみ書かれているだけだ。住民たちは「工事の過程で秘密維持のために集団虐殺されたか、米軍の攻撃に追いやられて死んだのだろう」と証言した。韓国政府がこれに対する詳細な調査を行わなければならない理由だ。
宮古島市当局は、韓国政府の調査に協力する意思を筆者に明らかにした。市当局者はこう言った。「韓国政府をはじめ関係機関やマスコミが、宮古島で死んでいった朝鮮人強制徴用者や慰安婦の実態を調査するために訪問するのなら、積極的に支援する。住民も被害者だ。本当のアジアの平和は過去を隠し、ごまかすのではなく、過去について話し合ってそれを再び繰り返さないように許しを請い、和解することだ。これこそ本当の日本と韓国の友好関係のための礎になる」
△ 朝鮮人の青年たちが建設に動員された日本軍37連隊のトンネルを表示した里程標(左側)海軍の神風発進基地があった座間味島(右側)
慰安所周辺には飲み水もなく
宮古島には慰安所だった場所もある。市役所所在地から車で20分ほどの距離にある上野村だ。ここでは日本軍部隊のそばに慰安所が設けられ、10人余りの朝鮮人女性が日本軍の性奴隷として暮らしていたという。住民たちは当時の建物や道まで事細かに証言した。ここ出身で宮古島の市民運動家であるウエサト・キヨミは、「慰安所周辺には飲み水さえなかったので1kmも離れた場所に行って水を飲まなければならないほど劣悪な状況で、人間以下の待遇を受けながら性奴隷にされていた」として「近所の人々は慰安婦たちを“朝鮮婢”と呼んでいたと祖母から聞いた」と証言した。宮古島には全部で11カ所の慰安所があった。
慶良間諸島の阿嘉島や座間味島は、日本はもちろん韓国のマスコミにも紹介された海洋観光の名所だ。4kmほど離れた2つの場所は天恵の観光地であるが、日帝末期の徴用の現場でもある。戦争末期の44年からここでは日本海軍により秘密軍事基地が造成された。海軍神風の発進基地を建設することだった。海軍の神風は、米軍の艦艇を攻撃するために小型ボートや魚雷を利用した自殺攻撃を行う任務を担った。朝鮮人の青年たちは海岸のトンネル堀りをはじめ港湾の荷役、武器および軍需物資の運搬、塹壕掘りなど様々な軍の労役に動員された。作業に動員された被害者たちは周辺地域の住民たちもまったく知らず、日本軍の厳重な警戒の下で働かされていた。特に戦争末期には秘密維持のために集団虐殺された場合もあった、というのが地域住民たちの証言だ。
韓国人生存者の証言もある。慶尚北道の英陽(ヨンヤン)で暮らしているカン・インチャン(87)氏は、当時の状況を克明に覚えている。「海沿いの内側に洞窟を掘り、その中に海上または水中攻撃用の神風の装備や武器を備蓄した。日本軍は我々に食べるものもロクに与えず、奴隷のようにこき使った。そうするうちに米軍の爆撃で死んだり、日本軍により死んでいった。考えただけでもぞっとする。戦争末期には沖縄と座間味・慶良間など4つの島に合計3000人以上が連れてこられ、徴用生活をしていたと聞いた」
座間味島東部の海岸に位置する古座間味ビーチは、沖縄県でもっとも青く美しい海水浴場の一つだ。今はここの住民さえもあまり知らない悲劇の現場が、まだ一部残っている。海岸から内陸に300mほど行った森の中には今も過去の基地の痕跡であるトンネルが残っている。現在は60年近く木々が生い茂っており、基地の入口をはっきりと確認することも難しい。亜熱帯林特有の鬱蒼とした情景のため、過去の痕跡を容易に見つけることはできないが、ここで多くの朝鮮人青年たちが死に追いやられたことは消すことができない事実だ。済州島の南側の海岸にも、これと同じような日本海軍の秘密基地施設が残っている。
歴史の記録まで放棄することができるのか
朝鮮から沖縄に連れてこられた青年たちは、主に軍所属の労役に動員された。彼らのほとんどは慶尚北道地域から連れてこられた。当時、米軍が沖縄を占領した後、1000人くらいの生存者が故郷に戻った。しかし、今も生きている生存者は極少数だ。誰によって連れて行かれ、何をして死んでいったのか、はっきりとは判明していない。日帝に関連する問題のうち、親日問題の断罪はできないとはいえ、歴史の記録まで放棄することはできない。その切実感を沖縄の離島は語っている。日本政府の隠蔽やごまかし、韓国政府の職務遺棄の下で朝鮮人青年たちの魂は今も太平洋をさ迷っている。
(ハンギョレ21/2007年03月08日 第650号)
* この記事は「靖国キャンペーン」の記事ではありませんが、いまヤバイ状況にある沖縄に関する記事ということでとりあげました。どのようにヤバイのかは、下のブログをご参照ください。
dr.stoneflyの戯れ言さん
「緊急・日本軍、沖縄に総攻撃中」…完黙するマスコミ
アルバイシンの丘さん
作業船20隻(辺野古浜通信)