[靖国キャンペーン]誰が沖縄を記念するのか
敗戦が確実となった日本軍が強制した住民たちの集団自決現場-その惨たらしい死はどのように天皇に捧げられたのか
▣ 読谷・那覇(沖縄)=文/ギル・ユニョン記者
▣ 写真/角南圭祐記者(フリーランス)
米軍が沖縄本島に上陸したのは1945年4月1日だ。1942年、ミッドウェーで日本海軍に大勝を収めた米軍は、容赦なく日本軍を攻撃した。1944年4月、サイパンを占領し、1ヵ月後に再びグアムを占領した。翌年1月、フィリピンが陥落し、3月には硫黄島が米軍の手に落ちた。米軍は破竹の勢いだった。沖縄の中心、那覇市から西側に10kmほど離れた慶良間諸島に上陸したのは、その年の3月26日だった。沖縄本島に駐屯した日本軍32軍本隊は、間もなく沖縄に攻め入る米軍に備え、全員玉砕を覚悟していた。日米両国軍で64万人が動員された3ヶ月間の熾烈な戦いの始まりだった。
△ 沖縄読谷村にある“チビチリガマ”からは、今でも人々の遺骨が発見される。ここで83人が集団による死を強制された。
子供の頭を叩き潰した父親・・・
米軍が最初に姿を現したのは、沖縄本島西南側の読谷村付近の海岸だった。村はパニック状態に陥った。日本軍は住民たちに「米軍が来れば惨たらしい殺され方をする」と繰り返し教えた。彼らは「女は強姦される」と言い、「天皇の名の下に辱めを受けずに美しく最期を迎える」という戦陣訓も教え込んだ。日本軍は沖縄の人々を信じていなかった。沖縄駐屯32軍(総兵力8万6400人)の司令官、牛島満は「沖縄弁で話す者は間諜と見なして処罰する」という軍回報を公布した。
読谷村の住民たちは山奥にある洞窟に隠れた。人々はその洞窟を“
チビチリガマ”と呼んだ。“ガマ”は沖縄の言葉で洞窟という意味だ。読谷村で会った知花昌一(59)は、「あの日、祖父が米軍に殺された」と話した。祖父は娘(知花の叔母)と共に暮らしていた。娘に知的障害があり、祖父は共同生活をしなければならない洞窟へ行くことができなかった。そして米軍が上陸した。木の茂みに隠れていた彼の祖父は、娘のために竹やりを持って米軍に飛び掛っていった。祖父は米軍に撃たれてその場で即死した。米軍は娘には手を出さなかった。知花は「その当時、祖父はおそらく70代だったと思う」と話した。
△ 知花昌一は「沖縄で天皇に対して感謝する人はいない」と言った。彼は読谷の村会議員だ。
住民たちが隠れていたチバチリガマは、すでに阿鼻叫喚の地獄となっていた。人々は洞窟の中で殺し合いを始めていた。日本軍は住民たちに手榴弾を渡していったが、使い方がわからないために不発弾となったものも多かった。腰紐でお互いの首を絞め、剃刀で手首を切った。ある父親は、自分の子供の頭をつかんで岩に打ち付けた。
ガマの中にいた140人のうち83人が死んだ。ガマの中からは今でも人々の遺骨が発掘されている。そこには遺族でなければ入ることができない。ガマの入口には亡くなった人々の名前と歳が刻まれた慰霊碑があり、当時の惨状を証言づけている。亡くなった83人のうち、年齢が確認できた82人の世代を分類してみた。まだ10歳にもならずに死んだ子供が24人、10歳以上20歳未満の青少年が24人だった。亡くなった子供たちのうち、「スエ」という名前をつけられた1歳の赤ん坊もいた。ガマの入口には「遺族以外の立ち入り禁止」という立て札があった。『ハンギョレ21』の取材陣と共に現場を訪れた“平和と生活をむすぶ会”の豆多敏紀事務局長は、「住民たちはもっと生きたかったに違いない」と話した。自分の父親の手にかかって死んだ子供が死ぬ瞬間、「靖国で会おう」と誓ったのかは知るすべがない。
知花昌一は「沖縄戦は軍隊が決して住民を守ってくれないという教訓を教えてくれた」と話した。後に「沖縄戦」という名称をつけられたこの戦闘で亡くなった沖縄住民は20万人を超える。1944年当時の沖縄の人口である59万480万人の3分の1だ。チバチリガマのような悲惨な集団自決の強制も少なくとも17カ所で行われ、982人が亡くなった。「昭和天皇が戦争をやめるという決心をもうちょっと早くしていれば、数多くの人々の命を救うことができたはずでしょう?長崎も広島もそうですよ」と知花が言った。軍隊は住民たちを見捨てたが、投降も許さなかった。住民たちには代案も示されず、そのため死に追いやられた。彼は「日本と天皇は沖縄を見捨てたため」日の丸や君が代に反対する読谷村民たちを代表し、1987年10月26日に全国ソフトボール大会で日の丸を燃やした。彼は8年にもおよぶうんざりするような裁判の末、3100円(日の丸の代金)の器物損壊罪で懲役1年、執行猶予3年の判決を受けた。
沖縄の反米運動家、トミヤマ・マサヒロ(55)は「すべての沖縄住民は家族の何人かを靖国に祀られている」と話した。彼の母方の叔父3人は靖国神社に合祀されている。トミヤマは「天皇と国家が沖縄に与えたものなどないので、別に感謝するような気持ちはない」と話した。しかし、戦争で子供3人を亡くした祖父の考えは違った。「息子たちがどこで死んだのかもわからないのだから、祈る場所が必要なんでしょう」祖父は子供に「靖国神社に絶対に行きたい」と話した。しかし、神社に参拝して戻ってきた祖父は変わっていた。靖国神社には軍服を着て日の丸を巻いている人々が多く、その横にある戦争博物館、遊就館は昔の戦争を美化していた。祖父は天皇がテレビに出てくると新聞紙を投げつけて怒りを顕わにし、5年後に亡くなった。
△ 金城実は10年に渡って沖縄戦の惨状を表現した彫像をつくった。
被害者が功労者に代わる錬金術
沖縄の有名な民衆彫刻家である金城実(67)の父親は、靖国神社に祀られている。両親は同い年だった。二人は18歳のときに結婚し、父は軍隊に志願入隊した。父はパプアニューギニアで22歳のときに戦死した。母は「お国がお父さんを神様として祀ってくれるなんてありがたい」と言った。母は日本政府から毎月20万円の遺族年金を受け取った。「2年しか一緒に暮らさなかったのに、それでどうやって夫を理解できるのか」金城は食って掛かった。母は「天皇のために死んだと考えなければあまりにも可哀相だ」と言った。金城は「父さんは犬死した」と歯向かった。母は机をひっくり返して怒った。「じゃあ母さんは孫に戦争へ行けと言えるのか?」母は答えられなかった。もう30年も前のことだ。「母の考えはその後、少しずつ変わったのでしょうか?」白いヒゲをなでながら、金城が自問するように言った。彼は1985年、中曽根元首相の靖国神社参拝の危険性を問う大阪裁判に参加した。今は沖縄住民たちの合祀撤廃を求める靖国訴訟団の団長を務めている。彼は「靖国神社が戦争を美化するために父の死を利用していることに耐えられない」と話した。「しかし人の考えを変えるのは大変でしょう」。6月23日、彼は読谷村の旧米軍飛行場で沖縄戦と、戦後の民衆の暮らしや闘争を描いた100mにおよぶ彫刻連作「戦争と人間」の展示会を開いていた。展示会は翌日終了した。6月23日は沖縄戦が終わった日だ。
沖縄の民衆達の怒りを無視するかのように、沖縄の靖国化はこれまでゆるぎなく進められてきた。もっとも残酷なのは集団自決を強いられた戦争被害者たちを殉国烈士として記念し、靖国神社に合祀したことだ。西尾市郎・平和をつくる琉球弧活動センター長は「集団自決させられた人々は1952年の援護法(
戦傷病者戦没者遺族等援護法)制定時の適用対象に含まれる」と話した。靖国神社は祀られる者の年齢を問わないため、30代の父も、その手で殺された3、4歳の子供も、天皇のために死んで靖国神社の神になった。船に乗り沖縄から九州側に強制疎開させられた際に、潜水艦に撃沈された対馬丸に乗っていた児童たちも同じことだ。軍隊の方針に従い、死ぬことになったという理由からだ。国家の過ちで死に追いやられた戦争被害者たちが、天皇のために命を捧げた戦争功労者に変えられてしまう“靖国錬金術”が作動したのだ。西尾センター長は「集団自決を強要された人々すべてが靖国神社に合祀されているわけではないが、援護申請をした人々はすべて合祀された」と話した。
教科書から「軍が自決強制」という内容削除
沖縄戦が終わった6月23日の“慰霊の日”を迎えた沖縄は、怒りに沸き立っていた。文部科学省が3カ月前の3月30日、実に329人が集団自決させられた渡嘉敷村事件を扱った高校の教科書を検定し、「軍が自決を強制した」という内容を削除するようにしたためだ。渡嘉敷事件の生存被害者たちは怒りを顕わにし、ほとんどが自民党議員で占められている沖縄県議会も「教科書検定を撤回しろ」と声を上げた。
こうして沖縄の靖国化は完成したのか。両親の手で死んだ子供たちの魂まで天皇のための死として記憶し、感謝しようとすることにかけて日本は執拗だ。子供が死んだとき、「靖国で会おう」と決心したのかは知るすべもない。子供はおそらくもっと生きたかったであろう。子供の死を“反省”ではなく“感謝”の対象とする靖国神社の態度は、子供の頭を叩き潰した父親の残酷さよりもさらに深い闇を感じさせる。
(ハンギョレ21/2007年07月05日 第667号)
* 参考 *
首相官邸「靖国神社について」