今日のハンギョレ新聞(紙面ではおそらく明日)に載っていた高橋哲哉氏のコラムです。
東京都民以外にとっては、(いやむしろ東京都民にとっては余計にでしょうね)不可解な石原三戦について書かれています。なんかもう、忘れてしまいたいような結果ですが、現実がどよよ~んとあるんですね。あの東京都庁に。(あ、でも登庁は週に数回しかしてないんでしたっけ)
高橋先生がここに書かれているように、絶望するためには希望をもっていなくてはならないのですから、まだそこまでには至っていないと考えましょう。
それにしても、今日の統一地方選挙も投票率が総じて低いようですね。あぁぁ・・・、それではどうぞ。
絶望のまたの名前‐“石原圧勝”/高橋哲哉
4月8日、日本全国で地方選挙が行われ、私も投票所へ足を運んだ。私は東京都民ではないが、もっとも注目を浴びた東京都知事選挙で、石原慎太郎現知事が三戦を達成したことに、ため息をつかずにはいられなかった。噂にたがわぬ強硬派として、今まで外国人、女性、障害者などに対する差別発言を繰り返し、最近では公私の区別を見失ったとも思える一連のスキャンダルが暴露された石原が、なぜ280万票も得て圧勝したのか。
「フランス語は数を数えられない言語だから国際語として失格している」と暴言を吐き、フランス語教員たちから訴訟を起こされた石原に注目していたパリの友人から、「信じられない結果」とのメールが届いた。
ある人はこう言う。とにかく石原に対して「言いたいことを正直に言う勇気がある人」だとか「いたずらっ子のように憎めない」など、多少の逸脱があっても関係なく、どんないい加減なことを言っても許してしまいたくなると。いや、それどころかタブーに挑戦し、多くの人が言いたくても口に出せない本音を代弁してくれる政治家として”カッコよく”見えると。先が見えない不安な時代、人々は石原に“強い指導者”のイメージを重ね合わせ、一種の“安心”を得ようとしているのではないか。
このような心理的な状態が、容易にファシズムにつながるかもしれないことを考えれば、本当に憂慮しなければならないだろう。しかし実は今回の選挙でそれよりも深刻だと感じたことは、地方選挙全体で投票率が依然として低かったという点だ。都知事選挙の投票率は、前回の約45%よりは高かったとはいえ、約52%にとどまった。有権者1000万人のうち、ほぼ半数が投票をせず、石原の得票は全体の有権者数で見れば28%にしかならない。都道府県議会選挙の平均投票率もだいたい50%で、前回35の県で戦後最低を記録し、今回も27の県で最低記録を更新したそうだ。
ここから現れたのは、どうせ誰が政治を行ってもこの国は変わらないという絶望だろうか。しかし変わらないということに”絶望”するためには、”変えたい”という強い”希望”を持たなければならないはずだ。そのような希望を持っていた人々が何度もこの国を変えようと努力してみたが、結局、変わらなかったために政治に絶望した結果がこれだとは、私は思わない。むしろここには“どうせ棄権しても、そんなに悪くはならないだろう”という、結局は現状肯定的で、大したこととは思わない保守的心性が現れているのではないかという思いがする。
4月12日に衆議院委員会で国民投票法案が、野党の反対を押し切って採択された。翌日の13日に本会議でも与党の賛成多数で可決された。このまま行けば、参議院でも可決され、またたく間に法案が成立してしまいそうな雰囲気だ。この法案は、憲法改正のための国民投票の手続きを決めた重要法案であるが、最低投票率の規定がなく、公務員や教員の地位を利用した賛成・反対運動が禁止されている。メディアによる有料宣伝および広告が原則的に自由であるため、財力がある改憲派が圧倒的に有利であるなど、さまざまな問題点が指摘されている。
このような問題法案が成立しようとしている状況であるのに、世論調査によると90%の市民が法案の内容を知らないでいる。教育基本法もそうだったが、多くの市民が政治的無関心のため、知らない間に市民の運命を左右する重大な政治的決断が徐々になされている。恐ろしいことだ。
高橋哲哉/東京大学教授・哲学