先日の
韓国の死刑制度に関するエントリーで朴正煕(パク・チョンヒ)政権下の政治活動の弾圧について少し触れました。
下にあるのは当時の韓国に在住していたアメリカ人神父が、その時代の韓国の様子をインタビューで語ったものです。死刑制度と民主主義が両立し得ないことを訴えると同時に、まるで共謀罪が成立した後の日本社会を予見するかのような内容になっています。
この神父が語っている「食べていくことだけを考えていれば、同じことが再び起きかねない」という警鐘は、日本にいる人々にも当てはまることではないでしょうか。
2006年 4月 20日 ノーカット・ニュース
「朴正煕はヒトラーのように胃袋のみを満たしてあらゆる自由を奪った」
今月24日、人民革命党事件の再審2次公判を目前にした1975年当時、この事件の真相を国内外に伝えたジェームス・シノット神父(78)がCBS TV「チョン・ボムグの時事トーク、誰かが!?」に出演し、人民革命党事件の真実と31年間の所感を明らかにした。
朴正煕時代が懐かしいだって?
「そんな言葉を聞くと腹が立つ。朴正煕時代にもそんな人たちがいた。黙っていろと。朴正煕のおかげで暮らしがよくなったと。しかしそれは人間の暮らしではなく、動物の暮らしだ。ヒトラーと同じことをしたんだ。人々に金を与えて道路を整備し、腹を満たしてやった。しかしあらゆる自由を奪った。それがナチス・ドイツだ」と話した。
彼は「まったく同じことが(当時の)韓国でも起こった」、「食べていくことだけを考えていれば、同じことが再び起きかねない」と強調した。
1973年に反維新*体制運動が全国的に拡散すると、朴正煕大統領は翌年“緊急処置4号”を発動し、国家転覆と共産政権樹立を試みた疑いで“民青学連**”を捜査し、その背後勢力として“人民革命党再建委員会”に注目した。関連者23人が拘束され、8人が死刑判決を受けた。そして18時間後に電撃的に死刑が執行された。
アメリカの民主主義は後退し、韓国は発展した
当時、シノット神父は人民革命党事件に抗議したことから韓国から追放されたが、2002年に民主化運動記念事業会議の招請で韓国にもどり、永住することとなった。人民革命党事件での拷問の事実が国家機関により公式に認められ、再審公判が進められている現在、彼はどのような心情なのか。
「まるで別の国のようだ。安心して暮らすことができる。当時は言いたいことも言えず、とてもつらかった」と話した。彼は続いて「特にアメリカと比べれば(韓国の民主主義は)大きく発展した。アメリカはブッシュ政権が拷問も行い、嘘がはびこり、民主主義が大きく後退した。しかし、その間に韓国はかなり成長した。だから私はアメリカよりも韓国で暮らすことを選んだ」と明らかにした。
そして彼は「これまで韓国は民主主義のために多くの苦難を味わった。若い人々は注意し続けなければアメリカのように民主主義を失うかもしれないという事実を知るべきだ」と忠告した。
ブッシュ兄弟、非人間的・非民主的な死刑制度を執行
シノット神父は死刑制度の例を出してアメリカ政府の非民主性を指摘し続けた。「私が住んでいたテキサス州では毎週、死刑が執行されている。テキサス、フロリダ州は死刑執行がもっとも多いが、奇しくもこの二つの州はブッシュ兄弟が州知事を務めたところだ。韓国にも死刑制度はあるが、実際には執行されていない。貧しい人々や黒人、精神異常者のような社会的弱者層が多く死刑になっている。社会の安全にも実効性がない。死刑は間違っている」と主張した。
当初、5.16クーデターはよくやったと思った
シノット神父は1960年に韓国に司祭として入国し、仁川永宗島などで10年以上過ごしたころ人民革命党事件と関わることとなった。彼は「当初、5.16クーデター***が起こったときはよくやったと思った。戦わずして国が安定するように軍人がちゃんとしてくれるだろうと思った」とこぼした。彼は「緊急措置が始まり、プロテスタントの若い牧師が監獄に入れられたときも、私は外国人であるために話もせずに黙っていなければならないと思った。しかし74年4月、緊急処置4号を聞いて驚いた。学生を死刑にするなんて。そのときこそ真実を知った」と話した。
ネズミ捕りのポスターに首相の顔を描いた
シノット神父はそのとき本格的な朴正煕反対闘争に立ち上がった。それに関する逸話も紹介された。彼は「真夜中に仲間の神父とこっそりネズミ捕りのポスターに、当時の首相だった金鍾泌(キム・ジョンピル)と申稙秀(シン・ジクス)中央情報部長の顔を描いたりもした」と回想した。その日は彼の生涯最悪の日、1975年4月8日だった。人民革命党事件の最高裁判決を見守っていたシノット神父は「老いぼれた13人の最高裁判事が座っていた。うつむいたまま、まったく表情も感情も表さずに10分で裁判を終えた。私は宣告内容を聞き取ることはできなかったが、夫人たちが立ち上がって『やめてください。私たちの話を聞いてください。お願いです。待ってください』と叫んでいた。彼らはそれに目もくれず、出て行ってしまった」と当時の光景を鮮明に覚えていた。
翌朝、シノット神父は彼らの死刑執行の知らせを聞いた。彼は「アメリカ大使館に行く途中、タクシーの中で『人民革命党・・・』という単語をチラっと聞いた。不吉な予感を抱きながら家に帰ると『夫人たちが西大門刑務所で待っている』という電話の知らせを聞いた。
友人から、彼らがすでに死刑になったという話を聞いた。イエス・キリストが亡くなったときのような最悪の出来事だった。なぜなら、われわれは人民革命党事件がすべて嘘の証拠で固められていたことを知っていたからだ。その日は私の生涯最悪の日だった」と目頭を濡らした。
チリに比べれば韓国の国家暴力は幼稚園のレベルだった
シノット神父は韓国から追放された後もアメリカで平和運動に積極的に参加し、チリなどの南米各国でも反独裁闘争に参与した。彼は「チリのピノチェト政権は韓国よりもひどかった。(国家)暴力の面でこの二つの国を比較すれば韓国は幼稚園のレベルにすぎない。韓国ではアメリカの神父としてある程度は話すことができたが、チリは話すことすら危険なことだった」と恐ろしい過去について言及した。
われわれが歴史において勝利した
平凡だった一人の神父の人生をことごとく変えてしまった人民革命党事件。シノット神父は「それでも私は幸せだ。彼らが死刑になったとき、強い挫折感を味わったが、彼らのために必死になって活動し、彼らの夫人とは盟友となった。そして30年が過ぎた現在、われわれが歴史において勝利した」と感慨深く話した。
CBS TV本部/チェ・ヨンジュンPD
*
十月維新:1972年10月17日、朴正煕大統領が長期政権維持を目的として断行した超憲法的非常措置。
この措置により維新体制が成立し、1979年19月26日に朴正煕が殺害されるまでの7年間続いた。1961年の5.16軍事政変で政権をつかんだ朴正煕は軍部内の反対勢力を排除するだけでなく、ナンパー2だった金鍾泌を無力化することで長期独裁政権の足場を築いた。しかし、権力集中に対する野党や国民の批判が強くなり、1970年11月に全泰壹(チョン・テイル)焼身自殺事件など社会経済的危機が表出した。
一方、国際情勢は東西平和共存(デタント)時代に入り、1969年にはアメリカのアジアからの後退を暗示するニクソン・ドクトリンが発表され、アメリカと中国の和解が達成されるなど変化をもたらした。このような情勢変化は朴正煕の政権維持への脅威要因として作用した。さらに1971年の大統領選挙で新民党の金大中候補に僅差で迫られると、朴正煕は反対勢力を除去し、独裁体制を樹立するために非常措置を発表した。
**
民青学連事件:1974年4月、全国民主青年学生総連盟を中心に180人が拘束・起訴された事件。
1973年8月、金大中拉致事件に国内外の世論が強く刺激され、反維新体制運動が起こった。9月の開校と共に大学生のデモは徐々に反独裁・反体制の動きに性格を変えていき、全国の高校にまで波及・拡大した。一部の野党議員・知識人や宗教関係者は民主憲政の回復および共和党政府の人権弾圧を糾弾し、本格的な改憲署名運動を展開した。
事態に対処するために当時の大統領、朴正煕は1974年1月8日、緊急措置1、2号を公布し、あらゆる改憲論議を禁止して違反者を審判する非常軍法会議を設置した。これにより、学生たちの運動は校内での地下新聞発行や同盟休学などの方法で続き、宗教界のでは一部の知識人と共に教会で時局宣言文を採択するなど、秘密改憲署名運動を推進した。
4月3日、朴正煕は「反体制運動を調査した結果、全国民主青年学生総連盟という不法団体が不純勢力に操られていたという確証をつかんだ」と発表し、緊急措置第4号を発動、学生たちの授業拒否と集団行動を一切禁止した。
中央情報部は緊急措置第4号が宣布された後、1024人の違反者を調査し、非常軍法会議検察部は180人を拘束・起訴した。起訴状によると、これらは1973年12月から暴力で政府を転覆するための全国的な民衆蜂起を画策し、その過程で人民革命党系の地下共産勢力、在日朝鮮総連系列、不純学生運動で処罰された容共勢力、国内の反政府主義者およびキリスト教徒の一部反政府勢力と結託、4月3日を期して政府を転覆し、4段階革命によって労働者と農民による共産政権樹立を試みたという嫌疑だった。
拘束された180人は非常軍法会議で人民革命党系23人のうち8人が死刑を、民青学連首謀者級は無期懲役を、そして残りの被告人は最高で懲役20年から執行猶予までそれぞれ宣告された。しかし、1975年2月15日、大統領特別措置により、多くが刑執行停止で釈放された。
***
5.16軍事政変:1961年5月16日、少将朴正煕の主導により陸軍士官学校8期生出身の軍人が第2共和国を暴力的に崩壊させ、政権を掌握した軍事政変。
5.16軍事政変は当時の政治・社会的問題と軍内部の問題という二つの背景を持っている。 政界は与党である民主党が新・旧派間の葛藤で分裂し、多様な社会勢力はそれぞれの政治的欲求を主張して政局は不安定な状態にあった。 特に革新系政治勢力の浮上と学生勢力の進出は、民族自主化運動、統一促進運動へ展開され、反共分断国家の根本を脅かすに至った。
一方、朝鮮戦争以降、韓国社会における地位向上と共に権力に対する欲求が充満していた軍部内では、陸士8期生を中心に高級将校の不正腐敗と昇進の滞積現象を攻撃する“下克上事件”が起きた。 これを契機に朴正煕少将と金鍾泌中佐を中心にした8期生は1960年9月、クーデターを謀議した。
1961年5月16日早朝、第2軍副司令官である朴正煕少将と8期生の主導勢力は、将校250余人および士官3500余人と共に漢江を渡り、ソウルの主要機関を占領した。 軍事革命委員会を組織して政権を掌握し、軍事革命の成功と6カ条の“革命公約”を発表した。
その6カ条とは、①反共を第一の国是とし、反共体制を再整備・強化する、②アメリカをはじめとした自由友邦との紐帯を強固にする、③あらゆる腐敗と旧悪を一掃し、清廉な気風を振作させる、④国民の生活苦を早急に解決し、国家自主経済の再建に総力を傾ける、⑤国土統一のために共産主義と対決できる実力を培う、⑥良心的な政治家に政権を移譲し、軍は本来の任務に復帰する、というものだった。
軍事政変は初期に米8軍司令官C.B.マグルーダー、野戦軍司令官イ・ハンリムなどの反対により一時期難関に直面したが、アメリカ政府の迅速な支持表明、 張勉内閣の総辞職、尹潽善(ユン・ボソン)大統領の黙認などにより成功した。 軍事革命委員会は“国家再建最高会議”で再編され、3年間の軍政統治に着手した。
軍政期間中、軍事革命勢力は“特殊犯罪(反革命、反国家行為)処罰法”、“政治活動浄化法”など法的措置によって政治的反対勢力と軍部内の反対派まで排除した。 また、核心権力機構として“中央情報部”を設置し、“民主共和党”を組織した後、大統領制復帰と基本権の制限、国会に対する牽制を骨子とする憲法改定を施行した。 1963年末に大統領選挙、国会議員選挙を勝利に導き、第3共和国は正式に発足した。
反共分断国家の危機状況から権力を志向した軍部勢力が不法な手段で合法な政府を征服し、権力を掌握した事件である。 これ以降の国家主導の急速な経済発展により、肯定的な評価を受けてはいるが、軍事文化の社会拡散、軍の脱法的な政治介入の前例をつくり、民主的政権交代の遅延、産業化の地域・階層間の不均衡などの否定的結果を残した。
(NAVER百科事典より)