先日、日本にいらっしゃるおぜう様から「本場の韓国料理を食べたい」と申し付けられましたが、あいにく、その時期は韓国の旧盆で、航空券も手に入らず、またおぜう様が宿泊できるような高級ホテルはすべて満室だったので、日本に留学中の韓国人の後輩、キム・チョルスに代理として西園寺邸に行ってもらい、
韓国の死刑制度について解説してもらいました。
いや~、やっぱり韓国のことは韓国人に聞かなきゃね~。
でもこの後輩、いろんな資料を引っ張り出してきたはいいが、全部韓国語の資料でやんの。「あとは先輩が日本語に訳してください」だと。
ちくしょ~、アイツめ~。ワシが提出期限ギリギリのレポートを持ってきて「韓国語のネイティブ・チェックしろ」と押し付けたり、酒の席で「ワシの酒が飲めんのかぁ~!」と無理やり飲ませたことをまだ根に持っているらしい。
ちうわけで、今週は連休明けで超がつくほど忙しいのに、しばらくはこれらの資料を訳すことになりそうです。
まずは「金大中前大統領がアムネスティに送った書簡」を含むページを翻訳しました。引用元は“
ソウル大学法学部ハン・インソプ教授と大学生が一緒に作っていく死刑廃止ホームページ”からです。それではどうぞ。
金大中前大統領の死刑廃止論
金大中前大統領は死刑廃止論の歴史において2つの記憶すべき足跡を残している。
1つは金大中が野党政治家として死刑宣告を受けたことだ。1980年、当時の軍事政権は権力延長の試みとして金大中を処刑する陰謀を企て、法廷で死刑の確定判決を下したことがある。これを無期刑に減刑し、その対価として全斗煥はアメリカのレーガン大統領を初めて国賓として訪問するという成果を得た。
2つ目は大統領になった金大中は、在任期間中、一度も死刑を執行しなかったことだ。同じ民主化運動の洗礼を受けたものの、死刑問題の重要性を理解しなかった金泳三政権下では、57人の死刑が執行されたこととは大きな違いがある。このような死刑未執行の記録は、現政権でも引き継がれることで、韓国は「事実上の死刑廃止国家」に接近しつつある。死刑廃止の最初の段階が、長期間におよぶ死刑の未執行から始まったという点を考えれば、金大中大統領は韓国で死刑廃止の第一歩を確実に踏み出したということになるだろう。
以下は2006年2月20日、金大中前大統領がアムネスティに送った死刑廃止に関する文章だ。
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アムネスティ・インターナショナルの死刑制度廃止運動に付して
死刑制度を廃止することは、21世紀の一般的な趨勢だ。死刑制度廃止決議案は、韓国でも国会に何度も上程された。
死刑は民主主義の根幹に反する行いだ。民主主義は人の生命をこの世でもっとも大切なものとして尊重するものであり、生命を断つことは法の名の下で行われると言えども、人権の基本的な原則に相反するものだ。
死刑の場合、執行されてしまえばその過ちを是正することはできない。われわれは検事や判事が過った判断をする可能性を完全に排除することはできない。
さらに憂慮すべきことは独裁者が民主主義の主唱者や政治的反対者を弾圧し、追いやる手段として死刑制度を悪用した事例が数多くあるということだ。韓国では人民革命党*の加担者が間違って起訴されて死刑になったこともある。また私自身も死刑宣告を受け、処刑直前にどうにか免れたのである。
罪人が道徳的に許されない罪を犯したとしても、死刑に処することで犯罪の減少に寄与するわけではない。死刑を終身刑に減刑すれば、むしろ罪人が自らの犯罪を悔い改め、新しい人間として生まれ変わる機会を与えることもできる。
どうすればこれが可能になるのか?人間の内面には善と悪が共存しており、周囲の環境や自らの行動の結果によって善人にも悪人にもなりうる。われわれは邪悪な犯罪を起こした人間が、悔い改めて新しい人生の1ページを開いたという数多くの事例を見てきた。
私が大統領として在任した5年の間、ただ1件の死刑も執行されず、何件かは終身刑に減刑された。その理由は、死刑が本当の解決策にはなりえず、民主主義と人権に相反するためだ。私は死刑制度が廃止され、民主主義の完全な実現が韓国だけでなく、世界全体に広がることを心から願う。
金大中前韓国大統領
2000年ノーベル平和賞受賞者
*
人民革命党事件:1964年8月14日当時、中央情報部が41人の革新系人物やジャーナリスト、教授、学生などが人民革命党を結成し、国家転覆を図ったと発表した事件。
中央情報部はその発表で「人民革命党は北朝鮮の路線に同調し、大韓民国を転覆させようと北の指令によって活動する反国家団体として各界各層の人々を包括。党組織を確定し、事実が明らかになったので逮捕した」と捜査の経緯を発表し、国民に大きな衝撃を与えた。
事件発表直後、韓国人権擁護協会は特別調査団を結成。被疑者が拷問されたという事実や事件の真相究明に立ち上がると同時に、無料で弁護を担当した。中央情報部で予審を終えた事件被疑者は8月17日に検察に送致、ソウル地方検察庁公安部の検事の捜査を受けたが、この事件をめぐっては検察内部でも意見が分かれた。この事件の起訴事実の有無で公安部の検事と検察高官の見解が異なったのだ。結局、この事件は国会で論争の的になり、政治的な問題にまで飛び火した。
また、被疑者に対する拷問の真相が暴露され、検察は再捜査を始めた。再捜査の結果、国家保安法違反の疑いで拘束・起訴された26人のうち、学生を含む14人に対しては告訴を取り下げた。残り12人に対しては告訴状を変更し、国家保安法の代わりに反共法4条1項を適用させた。1965年1月20日、ソウル地方裁判所の宣告公判でド・エジョン(懲役3年)、ヤン・チュヌ(懲役2年)を除き、残りは無罪判決を受けた。しかし5月29日、ソウル高等裁判所刑事部は原審を破棄、被告人全員に有罪宣告を下し、ド・エジョン、ヤン・チュヌ以外にもパク・ヒョンチェをはじめとした5人に懲役1年、他に対しては懲役1年執行猶予3年が下された。(韓国語ポータルサイトDaum百科事典より)