昨日に引き続いて靖国ネタです。
下の翻訳は、『靖国問題』の著者、高橋哲哉氏が8月7日のハンギョレ新聞に寄稿したものです。(原文日本語→韓国語訳→また日本語訳という文章なので、原文と多少違う部分はあるかと思います)
天皇メモの出現により、A級戦犯を分祀するという議論が活発化しましたが(asshole外相などが靖国改革案をうちだしていますね)、A級戦犯を分祀すればそれで問題が解決するわけではない、靖国の国営化など戦前への回帰であるという論理です。それではどうぞ。
靖国分祀と極右の復活/高橋哲哉
8月15日が近づき、日本の新聞・雑誌には靖国問題に関する記事が異常なほど多く目につくようになった。昨年も多かったが、今年はそれよりもかなり増えたような気がする。過熱報道の要因の一つは、7月20日付の『日本経済新聞』のトップ記事だろう。1988年に富田朝彦宮内庁長官が昭和天皇の発言を記録したメモが発見され、そこにA級戦犯の靖国合祀を理由に昭和天皇が参拝をやめたということを示す内容があったと伝えられた。このような見解は以前からあったが、今回のメモが本物であるならば、“物証”が出てきたということになる。
反響は大きかった。『朝日新聞』などは一斉に「昭和天皇さえもA級戦犯を祀る神社への参拝を中断したのだから、総理も参拝を自制すべきだ」と強く主張した。一方、参拝を指示するメディアは富田メモの価値を否定したり、過小評価するのに必死だった。参拝反対派まで天皇の言葉を利用したり、A級戦犯のみが悪くて昭和天皇には戦争責任がなかったという論調が強くなったことが、日本社会の民主化と歴史認識の限界を示した。これとともに参拝反対派にとっては、このメモをうけて中長期的にどのような状況が起きるかが問題だ。このメモは短期的には総理の参拝反対論への追い風になるが、長期的にはA級戦犯分祀論を活性化させるだろう。それは総理の参拝はもちろん、天皇の参拝復活のための分祀論にもなるだろう。前回のコラムで“感情の錬金術”は天皇の参拝で可能になると書いたように、もともと靖国神社に不可欠なのは天皇の参拝であり、総理の参拝ではない。靖国は“天皇の神社”であって、天皇が参拝することによって遺族も戦死を“名誉の死”として受け入れるのである。
富田メモに従えば、天皇の参拝を実現するためにはA級戦犯を分祀しなければならない。これは中国・韓国の批判に強く反発する日本の世論に対しても、分祀を納得させることができる立派な論拠となる。実際に麻生太郎外相などは総理だけでなく天皇も“堂々と参拝”できるようにするための分祀を主張している。さらに注目しなければならない点は、靖国神社の“国営化”“国家護持化”まで公然と言及されはじめたということだ。政府が分祀を強制すれば、政教分離を規定する憲法に違反するため、靖国が自主的に宗教法人格を返した後、国家が管理して分祀を決断すればいいというのが麻生外相などの考えだ。
韓国と中国はA級戦犯の分祀を望ましいことだと考えるだろう。分祀が行われれば、現在の外交問題は解決の方向に進むだろう。しかし、A級戦犯がいない靖国に天皇や首相が堂々と参拝し、靖国が国営化されたとすれば、どうなるだろう。これこそが敗戦前の靖国の姿ではないのか。敗戦するまで靖国は“戦争神社*”として完全稼動していた。そのときはA級戦犯が合祀されていなかった。A級戦犯の分祀は結局、靖国が“本来の姿”にもどる道を開くだけなのではないか。
これが憲法9条の改正、すなわち自衛隊の正式な軍隊化・軍事力行使許容と連動すればどうなるか。新しい日本軍が中東や朝鮮半島で米軍とともに武力行使をして日本軍にも戦死者が出たとしよう。この戦死者は国営化した靖国に新たな英霊として祀られ、天皇や総理がそこに参拝して“国のために命を捧げた名誉の戦死”として功績を賞賛するだろう。日本軍と、それを崇める施設である靖国復活の道を開きかねない分祀論を私は支持しない。総理は参拝を中断し、靖国を日本という国家から名実ともに引き離すことが重要だ。
高橋哲哉/東京大学教授・哲学
*「戦争神社」って、ものすごいインパクトのある言葉だなぁと思ったのですが、CNNなどを見る限り、英語でも「War shrine」と表現されていました。そうだよなぁ。やっぱり靖国は「せんそうじんじゃ」だよなぁ。