「不法の法治」に立ち向かって何をするのか
検察と言論の誇大妄想に窒息させられた我々の夢
「誤った選択」を自省し、新しい希望を導き出すべき
『ル・モンド・ディプロマティーク韓国版』[10号]
2009年07月03日(金)18:36:09
ソン・ドゥユル|ドイツ・ミュンスター大社会学教授
今日、愕然とするような写真1枚がインターネットにあげられていた。逝去した盧武鉉前大統領の遺影を戦利品のように片手で自慢げに掲げている戦闘服姿の男性と、その後ろに蝶ネクタイをつけた正装姿の老紳士が座っている写真だ。これと似た写真をどこかで見たというおぼろげな記憶が、私の頭をかすめた。
それは南京大虐殺で無残に斬首され、血が流れつづけている中国人の頭をつかんで自慢げにポーズをとった日本軍の写真だった。これと共に、当事としては珍しい背広姿でこのような虐殺を悠々と眺めていた日帝や満州国の高級官僚たちの姿を写した写真も蘇った。一方では残忍で、もう一方では開化とファッションの象徴である蝶ネクタイで偽装した野蛮でおぞましい姿を写した記録だ。
私が受けたこのような不快な印象が、国内の現実とは乖離していればと思うが、最近会った韓国の知人は、それがまさしく韓国の現実だと指摘した。特に盧武鉉前大統領の衝撃的な逝去は、政権交代からしばらくして始まったロウソクデモにより、すでに二分化された社会世論の溝をより深くするものだった。
「法治」は万病の薬なのか
10年ぶりに政権奪回に成功した保守勢力は、このような葛藤の震源地に親北左翼勢力が潜伏してうごめいているとして、民主主義を守るために強力な「公安統治」を行うと明らかにし、これを「法治」の核心とまで主張している。これに対して批判勢力は、葛藤の核心はまさしく執権勢力の独善的な権威主義と我執が、国民との民主的コミュニケーションを遮断した点にあると反駁している。
現政権は大統領選挙でも、総選挙でも圧勝したことから、国民の絶対的に支持を得た政権だと主張し、また「法治」に対する国民の絶対的な委任も得ていると解釈している。しかしこれは形式論理に過ぎない。ナチスが執権以降、多くの法を議会で通過させ、これに基づいて前代未聞の「不法国家」を維持した。西ドイツの憲法学者グスタフ・ラドブルフは、敗戦後にそのようなつらい経験を反面教師とし、あらゆることを法に依拠しようとする法実証主義の矛盾を指摘して、自然法と人権に基礎を置く実質的な法治国家を主唱した。「法的な不法」がそこにはあるためだ。盧武鉉前大統領の逝去以降、随時に発生する公権力による意思表現と、平和的な集会の政権と弾圧は、まさしく法を全面に打ち立てて国民の基本権を蹂躙する明白に不法な事態だ。それでも国民権益委員会の委員長さえ、このような不法を正当化する「法治」が、現実を支配している。
市場が必ずしも民主主義なのか
国会では今「メディア法」をめぐる葛藤も最高潮に達しているそうだ。大資本中心のメディア市場改編が、言論の公共性を徹底して毀損し、さらに言論の自由を本質的に歪曲するのは言うまでもない。盧前大統領逝去のニュースを聞いた私は、すぐに私自身の5年前の経験を思い出し、彼の自殺はきっと言論による他殺だと思った。法治の中心に自らが立っていると誇大妄想する検察と、やはり民主主義のために言論の自由を守ると誇大妄想する言論財閥または財閥言論が、言葉のやり取りをしながら行った世論裁判が、その生活を悲劇に追いやったからだ。
言論も、学校経営も、国民の健康もすべて市場の自律に任せればいいという、いわゆる新自由主義政策も、労働市場の流動化を打ち出して労働世界の内的分化を誘導しつづけ、非正規職を量産する体制を維持しようとする。世界的な範囲で経済危機に直面している今日では、成長と福祉を同時に求めることは、もちろん容易ではない。しかし社会的弱者の制度的保護を度外視した社会的統合は、当初から困難な話にならざるを得ない。逝去前に盧武鉉前大統領は、ジェロミ・リフキンの『ヨーロピアン・ドリーム』を読み、この本を読むことを周囲の人にも勧めていたという話を伝え聞いた。なぜ彼は「アメリカ的な夢」を美しく叙述する多くの本の代わりに、この本を読んだのだろうか。私は「静かな強大国」に関する彼の夢をまず理解することができた。市場決定主義と成長第一主義が長期間にわたって再生産してきた社会的葛藤により、すべてが騒々しい国を越えようという彼の苦悩も読み取れることができた。「無能よりは腐敗の方がましだ」という間違った二者択一の道を進んだ多くの人々が選んだ現政府では、このような夢と苦悩の痕跡を発見することができない。
統一政策のない「統一政策」
このような夢と苦悩の不在は、対北政策にもそっくりそのまま現れている。6・15(金大中・金正日/2000年)と10・4(盧武鉉・金正日/2007年)に圧縮表現される前政権10年の対北政策や統一政策を、当初から白眼視したり、「待つことも政策だ」、「時間は我々の味方だ」というふうに民族問題を意図的に、また虚勢をはって放棄した深刻な結果を我々は今見ている。もちろんどんな政権でも前政権との政策の差別化を試みるが、この場合はあまりにも深刻な結果を現在もたらしている。
今年で20周年を迎えるドイツ統一のこれまでの過程を反芻してみても、この問題に対する教訓を見つけることができる。社民党のブラントのいわゆる「東方政策」は、保守的なキリスト教民主同盟でも基調が維持され、これよりさらに保守的なバイエルン州の万年与党であるキリスト教社会同盟の党首、ヨセフ・シュトラウスは、東西ドイツの関係改善に誰よりも先頭に立って努力した。政権の非連続性においても、統一政策の連続性がどれだけ重要なのかを端的に示す例だ。
統一部の廃止案から始まった現政府の統一政策は、結局は「非核・開放3000」と表現されたが、これは相手の存在を完全に無視した一方的な宣言に過ぎなかった。一言で言うなら「頭を下げるなら助けてやる」というふうな自惚れと虚勢が散りばめられた宣言に、プライド一つでこれまで耐えてきた北が応じると考えたのならば、これは余りにも北のことを知らずに統一の話をしていることになる。このように基本的な前提と態度に変わりがなければ-明らかに不幸なことだが-南北関係の正常化は当分の間、期待できないという気がする。
オバマにかける期待と失望
南北関係のこのような行き詰った状況を打破する重要な契機として、多くの人々はオバマに多大な期待をかけた。彼の理想主義が朝鮮半島の懸案解決にも新鮮な変化と衝撃をもたらすと期待したのだ。これまで遅々として進まなかった六カ国協議の枠の中で、朝鮮半島の軍事的緊張の核心問題である米朝関係の改善も消滅することを経験した北朝鮮は、オバマ政府の発足にそれなりの期待をかけただろう。しかしオバマ政府の国際紛争解決の優先順位から下位に追いやられた米朝関係の改善問題は、北に失望感を与えた。もっと待ってみるのか、それともむしろ問題を直接的にまず強く提起するのかという選択の岐路で、北の指導部は深刻な結果をもたらしかねない後者(人工衛星(ミサイル)発射、核実験)の道を選んだのだ。
そのような決定に対して、オバマ行政府の対北政策の枠が完全に固まっていない状況で出した北の拙速な判断であり、不利な手法であるという批判が起きている。オバマは多くの敵対国を抱えているのに、北朝鮮だけが目につくことを選んでやらかしたということだ。私は最近のイランに対するオバマの対応様式から、このような批判が説得力を失ったと見ている。現在、指導部との対話を基本枠に設定したオバマの対イラン政策も最初は慎重な姿勢を見せたが、ただちに現体制の批判勢力に対する支持に旋回し、イラン指導部と再び衝突している。アメリカの対外政策の基本が一朝一夕に変わるわけはなく、アメリカの指導部も自ら相当の対価を払うという決断なしには変化をもたらすことはできない。オバマが連日「北朝鮮バッシング」にいきり立っている『ウォールストリート・ジャーナル』の対北感から解放され、そのような決断を容易に下すとは私には思えない。
希望はどこへ
内外にあらゆる問題が錯綜しており、どうにも息苦しく、失望的な現実だ。しかし、このような状況に変化をもたらす動きを遠い場所から見つけることはできない。周辺国の立場で見ると、朝鮮半島問題にそれらの利害関係はあるが、だからといって自分の死活を直接的にかける問題ではない。戦争が勃発すれば、直接的に被害を被るのは南北に住む我々の同胞だ。自らがまずできることが多いのに、周辺国の動きに神経過敏になり、これにのみ引きずられている。核戦争でなくとも、通常兵器による戦争で民族が共に滅んでしまうのに、これまで南北の和解と共生、そして平和と統一に関して結んだ重要な約束さえも容易に忘れてしまっている。
このような雰囲気の中で行われたロウソクデモと盧前大統領の逝去に対する追慕の行列は、政治的想像力を新たに燃え上がらせる、ある種の「例示的教育」だった。つまり、社会問題の構造的核心を具体的に示す見本によって構成された政治教育であり、訓練だった。もちろん「路上の民主主義」は選挙に代替するものではない。しかし代議政治も完全無欠な制度ではないため、「代表者召還権」や「市民的不服従」を認めていないのではないのか。
現政権の退陣運動の話もあると聞いた。しかし前回の大統領選挙と総選挙の結果をこれからも是正する機会がまったくないわけではないし、間違った判断や決定も未来のために立派な反面教師としてうまく活用することができる。「例示的教育」によってより多くの社会構成員が、過去に実質的民主主義の確立と民族の和解と統一に自ら積極的役割を果たすことができなかったという徹底した自己反省がなければ、前回の選挙が生んだ様々な深刻な結果は、これからも修正されることがないと思う。
文章・ソンドゥユル
ドイツのフランクフルト大の哲学博士で、ミュンスター大の社会学科教授として在職中。1960年代にドイツに留学中、維新体制反対運動を主導した。社会哲学・社会主義・比較思想などの研究と共に、南北朝鮮の社会に対する研究も続けた。2003年、民主化運動記念事業会の招聘で帰国したが、国家保安法違反の疑いで拘束された。2審で大部分の容疑に無罪判決が下り、再びドイツに帰った。著書は『未完の帰郷とそれ以降』(2007)、『境界人の思索』(2002)などがある。