冷戦の「追憶」が色あせる冷戦の「現実」
『ハンギョレ21』[2009.07.17第769号]
[キム・ヨンチョルの冷戦の追憶]
金剛山と開城工業団地が北朝鮮の核開発をもたらしたと言う…ようやくわかってきた、明博の月明かりを
»「離散家族は今どうなっているのか」。2007年10月17日午後、北の地、金剛山の外金剛ホテルで行われた第16次離散家族再会行事で、北側の兄ユン・ヨンソプ(73)さんが南側の妹ユン・ボクソプ(68)さんと抱き合いながら涙を流している。写真/写真共同取材団
ちょっと前にタクシーに乗った。北朝鮮がミサイルを発射したというニュースが流れた。「民主的な人」だと思っていたタクシーの運転手が、突然「保守的な人」に変わった。「面食らう」とはこんなときに使う言葉だろうか?「やつらは飢えているくせに、いったいどこから出た金でミサイルをばんばん発射しやがるんだ…」それに続く話は、だいたい検討がつく。やはり「金大中・盧武鉉政権が北朝鮮を甘やかした」という話、「一方的支援イデオロギー」だ。韓国のいわゆる保守が言うことのなかで、おそらく一番成功したフレームなのではないか。
成功したフレーム、「一方的支援イデオロギー」
だからといって、李明博大統領まで出てくることなのか。突然驚いた。「この10年間、北朝鮮に支援した金が北朝鮮の核開発に使われた」、そして「疑惑」を提起した。李明博政府の対北朝鮮政策の正当性を確認する発言だ。この発言は、これまでの1年6ヶ月間、李明博政府が南北関係をなぜこのようにしたのか、これから残りの任期期間の対北朝鮮政策をどのように導いていくのかを予告する「決定的一言」だ。
なぜ6・15(金大中・金正日/2000年)と10・4(盧武鉉・金正日/2007年)、二度の南北首脳会談を否定したのか、なぜ金剛山観光が中断してから1年が過ぎても放置されているのか、なぜ開城工業団地が閉鎖されても関係ないという態度なのか、なぜ最近は企業家の北朝鮮訪問まで全面禁止してしまったのか、そして経済を生き返らせるという政府が、困難な時期を切り抜けてきた中小企業の声に耳を傾けないのか、ようやくわかってきた。すべての疑問が解けたのだ。
「いくらニューライトとはいえ国政運営の責任者なのだから、朝鮮半島情勢の管理に対する責任感を感じているだろう」と考えていた。「朴正煕、全斗煥、盧泰愚などの保守政府でも対話をし、交流協力を推進していたではないか」そんな一縷の期待感もあった。しかし、我々は今まで大韓民国の歴史において、見たことも聞いたこともないような対北朝鮮政策の実体を目撃している。
「一方的支援」、これは保守メディアや保守政治家たちが合作し、発明した憎悪のイデオロギーだ。政治的扇動としてはそれなりに成果があった。しかし、政策として話すにはあまりにレベルが低く、根拠が弱い。結論から言えば、この10年間に政府レベルで北朝鮮に渡した現金はない。
2000年の南北首脳会談の頃、北朝鮮に渡った4億5000万ドルは、特検でも明らかにされたことだが、現代(財閥)の7大対北経済協力事業独占権の対価だ。政府が送金の便宜を提供し、外為取引法違反で起訴されたが、首脳会談の対価ではないことは明白だった。それでも一方的支援だと言う人々は、まず対北送金特検の捜査結果発表文を読んでみることをお薦めする。
»半世紀の分断の痛みを越え、北の地、金剛山観光の道を開いた「現代金剛号」が1998年11月18日午後、東海湾の埠頭で市民に歓送されながら出港している。写真/ハンギョレ資料
政府レベルで北に渡した現金はない
前の政府から現物を人道的支援目的で、鉄道を連結するために、道路を建設するために渡したことはある。しかし現金支援はなかった。北朝鮮に渡った現金の正体は一体何なのか?金剛山観光の代金、開城観光の観光料、開城工業団地の賃金、そして交易の代金だ。政府レベルではなく、民間の正常な経済的取引の代金だ。このような金が渡ってはならないのだろうか?では経済協力をするなということなのか。貿易をしながら貿易代金の用途を指定することはできない。近所のよろず屋のおじさんが博打をするからと、ジュースの代金の代わりに現物を渡すことができるのか。
だったら、そんな店に行かなければいいって?南北経済協力がそのようにできれば、どれだけいいだろうか。金剛山観光には、今まで195万人が訪れた。行くなと?それこそ一部のニューライトの考えであり、健全な常識を持った人なら同意しないだろう。開城工業団地に関して、他の代案はあるのか?労働集約的な中小企業が中国やベトナムでいろいろやってみたが失敗し、最後の出口として考える場所だ。地球上で、1カ月60ドルの賃金で起業できる場所はどこにあるのか?開城以外にはない。開城工業団地の賃金を一方的支援だって?韓国の中小企業がこれまでに手に入れた数十倍の利益を、なぜ無視するのか。
交易も我々が必要だからしたのだ。北朝鮮産の砂交易を例に見てみよう。2007年の場合、北朝鮮産の砂の搬入量は1495万㎥で、首都圏の年間需要量(3700万㎥)の40%を占めている。一年の砂代金として支給した金額が3500万ドル(2007年)で、金剛山観光の代金(年間2000万ドル)や開城工業団地の賃金よりも多かった。なぜこのような現象が起こったのだろうか?韓国内で河川砂や近海の海砂採取に対する環境規制が強化されたため、起こるべくして起こった現象だ。もちろん李明博政府になって環境規制がひそかに緩和され、韓国内沿岸の海砂採取量が増えた。しかし、北朝鮮産の砂が搬入されない2009年に入り、砂の価格が暴騰していることも事実だ。
開城は中小企業の最後の出口
»「冷戦の半世紀を越えて」2000年6月15日午後、平壌順安空港からソウルへ帰る専用機のトラップに上がる直前、金大中大統領が金正日国防委員長と惜別の抱擁をしている。写真/青瓦台写真記者団
「一方的支援」は政治的スローガンだ。大衆の情緒を一瞬で歪曲することができるが、事実ではない。討論の主題にはなりにくい。一方的支援という用語は、あらゆる交流協力を一方的な施しとして規定してしまう。だから一方的支援はしないという政策が出てきた。しかし、取引はギブ・アンド・テイクだ。特に民間の経済協力は、経済性がなければ不可能だ。盧泰愚政府の「7・7宣言
*」以降、南北の経済協力が始まった。利益を出す企業は事業を続け、出せない企業は事業を中断した。15年以上、堅実に委託加工事業をしている企業もある。そんな企業に対して李明博大統領が言った。あなたが北朝鮮の核開発を支援したと。金剛山を訪れた195万人にも言った。あなたが払ったお金で北朝鮮が核開発をしたと。開城工業団地の中小企業の経営者にも言った。あなたが払った賃金で北朝鮮が核開発をしたと。こんなことでいいのだろうか。
そうか、これが「月光政策」なのか…。金大中政府の太陽政策を批判するハンナラ党を見て、全斗煥元大統領が言った。「そんなに太陽政策がいやなら月光政策でもしてみろ」と。だから出てきたのか。日が沈み、月が出た。妙な風が吹き、オオカミが遠吠えしている。再び蘇った冷戦の追憶よ。
「冷戦の追憶」という題で文章を書かなければという思いは、ずいぶん前からあった。分断の歳月は過ぎていくが、分断の現実を忘れつつある若者たちに言ってやりたかった。南と北が出会い、戦い、和解し、協力する分断の風景を。愚かしくも悲しい追憶について伝えたかった。ところがある瞬間から、どこかで見たことがあるような風景が現実になった。李明博政府になってから、このコラムが過去の歴史ではなく、現在の政治になってしまった。
誹謗と中傷が再び登場し、北朝鮮崩壊論や吸収統一論が公に語られるようになった。金泳三政府のときにうんざりするほど見た風景だ。ここで閑話休題。金泳三政権のときと李明博政府とを比較すれば、気分を害するだろう。金泳三大統領の左右衝突が結局、南北関係の「失われた5年」をもたらしたが、それでもその当事は穏健派と強硬派の路線葛藤などがあった。金泳三大統領の就任演説、「いかなる同盟も、民族に優先しえない」という発言を覚えているだろうか?そのような考えを持つ人々が初期に対北政策を担った。もちろん長続きはせず、強硬派に追いやられてしまったが。そして金泳三政府は世論を重視した。しかし、あまりに早急に世論に反応したため、冷水と熱湯を頻繁に出たり入ったりした。
その点、李明博政府は一心不乱だ。強硬派が闊歩し、残りは魂が抜けた状態だ。ほんの2年前に保守野党の「一方的支援」扇動を一々批判していた統一部が当事作成した文献が、今もインターネット空間に残っているが、今では口を閉ざしている。ハト派はいない。「金泳三にも劣る…」、なんて言えばひどい中傷になるのだろうか。
泳三のときは路線葛藤などもあったのに…
北朝鮮政府をめぐる過剰対応も同じようなものだ。「金正日委員行が歯磨きできるほどに回復した」と言う青瓦台関係者を見ていると、おそらく「魔法の鏡」でも持っているのではないかと思う。後継者問題に関する各種の「小説」も同じだ。対話が終わると、相手のことが気になる。無責任な好奇心とでも言うべきか?対北「政策」というよりは、対北「情報」があふれているということは、確実に対話が中断したときに現れる一般的な現象だ。相手を考慮しなくてもよく、推測と諜報を公に騒ぎ立てても負担にならないと判断しているからだ。
»2004年10月20日、開城工業地区管理委員会の開所式と、模範団地への進出企業の工場着工式に参加した南北の人々が「共存共栄」の最初のシャベルを入れている。写真/写真共同取材団
冷戦の追憶は、残酷な悲しみの風景でもある。李明博政府になって、離散家族の再会が中断した。今日も大韓赤十字社に離散家族再会申請をした年老いた人々が、「この世での最後の願い」を叶えられないまま、あの世に旅立っている。2008年だけでも2184人が離散の痛みを抱えて息を引き取った。2009年1月末現在、12万7356人の申請者のうち、すでに故人となった人が3万8926人だ。過酷で無情な現実だ。金剛山観光でもできれば、遠い場所からでも切なさを癒すことができるのに、それさえもできないでいる。
北朝鮮となぜ対話しなければならないのかと問われれば、迷わず答えることができる。離散家族の再会のためだ。分断以降、1971年の初の南北の出会いは、離散家族の再会のための赤十字会談だった。1985年に初めて離散家族の故郷訪問が行われた。そしてまた長い歳月が流れ、2000年の南北首脳会談を終えた後に定例的な離散家族再会が行われるようになった。この10年の対北政策をどう評価するのかと問われれば、迷わず離散家族の再会規模を提示するだろう。2000年から2007年までの南北離散家族の再会事業は、対面再会16回、画像再会7回など、1万9660人の再会が実現した。李明博政府は、果たして任期中に離散家族の再会を成し遂げることができるのだろうか?
再会できず、目を閉じる離散家族
開城に現代牙山の職員、ユ某さんが抑留されてからも100日が過ぎた。北朝鮮を糾弾する決起大会は、十分にできる。しかし、国民の生命と安全の責任を担う政府であれば、ユさんを連れ戻すのに最大限の努力をするべきだ。この10年間、南北接触の現場で多くの出来事があった。事件や事故も絶えなかった。しかし結局は解決した。南北の対話が実現すれば、問題を解決できる。李明博政府は今までユさんを釈放させるために、どのような努力をしたのだろうか?デモをするかのように拡声器を手に示威するのではなく、一体どんな努力をしたのかを問い質したい。
北朝鮮の人権問題もそうだ。北朝鮮の人権が改善されるべきだと思う。問題はその方法だ。例えば、国軍捕虜と拉致問題を見てみよう。それでも前政権の10年間は十分ではなかったものの、南北の合意文書でこの問題を解決するための努力をしていくことを明確にし、一部は「特殊離散家族」の範疇に入れて生存確認や再会をした。李明博政府はこれまで、この問題の解決のために何をしたのか?任期終了までに北朝鮮の人権問題改善の実績が、過去の政権よりもましになるのだろうか?
»「分断の壁を越えて」。2007年10月2日午前、盧武鉉大統領夫妻が史上初めて軍事分界線を徒歩で越え、第2次南北首脳会談が開かれる平壌に向かっている。写真/青瓦台写真記者団
李明博政府になって一番悔しい思いをしているのは、おそらく中小企業の経営者たちだ。開城工業団地の中小企業は、今日も不安な一日を過ごしている。南北の政治・軍事的対決のスケープゴートになってしまったからだ。どれほど苦労してここまで来たのだろうか?1990年代初頭、韓国内で競争力を失った履物、繊維、縫製、機械製作業者は中国、東南アジアに進出した。安い人件費を求めてだ。だが月日が流れ、これらの国家で産業構造が高度化し、競争力を失った。労働集約産業にどんな技術競争力があるというのか。人件費は高くなるばかりで、現地企業の追撃も激しく、結局は失敗してしまった。誰だって対北事業が危険だということを知っている。南北関係に多大な影響を受けるということを知らないわけではない。だが他の代案がないのに、どこへ行けというのか。
7万5000人の雇用はどうしろと
今のような不安な情勢で、開城で耐えられるのか?筆者が出会ったある中小企業の経営者はこう言った。「政府が補償をしてくれるかもわからないが、補償をしてくれたところで、それで飲食店をするわけにもいかないし…」開城から撤収すれば行く場所がないそうだ。李明博政府の人々は、この事実を知るべきだ。現在、開城に進出している企業は106に過ぎないが、その関連企業は国内で2600にもなるという事実だ。原資材や部品をすべて南側から持ってこなければならないため、それだけ関連産業が包括的だ。関連企業の主張によると、南側に散在している関連企業をすべて含めば7万5000人の雇用になるそうだ。決して少なくない規模だ。さらに重要なことは、開城を見守る中小企業の希望だ。
現代牙山の人々のことを考えるだけでも胸が痛む。どうやってこの歳月を生きてきたのか。金剛山のこの11年の歳月は、決して平坦ではなかった。あらゆる波風をくぐり抜けてここまで来た。金剛山を訪れた離散家族の切なさを共に感じ、学生たちと共に統一の夢を見た。もう1年になるのか?金剛山に流れる寂寞よ。現代牙山の家族の涙よ。
去年までは政府に提言をした。その道を進んではならないと。今はむしろ「そのまま進め」、そう考える人が増えているようだ。「月光政策」も教訓になるだろう。反面教師とでも言うべきか?だが線路は錆びつき、金剛山へ行く道には雑草が生い茂り、離散家族の心は引き裂かれ、中小企業は絶望するだろう。残念ながらこれが冷戦の現実だ。再び蘇った冷戦の追憶よ。
キム・ヨンチョル/ハンギョレ平和研究所長
*7・7宣言 1988年7月7日に盧泰愚大統領が発表した宣言。 この年の春から在野団体や学生層を中心に統一論議が拡散し、6・10南北青年学生会談の強行で学生と警察が衝突するなどの統一運動の気運が過熱するなか、盧泰愚が北朝鮮、中国、ソ連に対する開放政策を表明する6項目の対北政策を発表した。 ここで盧泰愚は自主、平和、民主、福祉の原則に立脚し、民族構成員全体が参加する社会、文化、経済、政治共同体を作り上げることで、民族自存と統一繁栄の新時代を開いていくとした。