既得権を自ら放棄した「脱権威の象徴」
『ハンギョレ21』[2009.05.29第762号]
[特別企画]盧武鉉前大統領逝去
キーワード③挑戦-党政分離、言論と線引き、地域主義の打破など新たな試みを続けたが、右派・族閥言論の砲火で傷ついたのみ
▣チョ・ヘジョン
「私は今回の選挙によって古い政治が終わりを遂げ、新しい大韓民国を導く新しい政治の時代が始まることを宣言します」2002年の大統領選挙を2日後に控えた12月17日、記者会見で盧武鉉前大統領は“盧武鉉時代”をこのように規定した。しかし、1年後の2003年11月5日、彼は元老知識人13人を青瓦台に招待して開いた午餐懇談会で、このように話した。「太宗(13~14世紀の三代目の朝鮮王)が世宗(四代目の朝鮮王)の時代基盤を築いたように、新しい時代の長兄になりたかったが、旧時代の末っ子になりそうだし、旧時代の最終列車に乗ったような気分です。過去の旧態から抜け出し、後世が再び泥沼にはまらないようにし、次の政府がうまくいくようにします」その通りだった。彼は旧時代を清算し、「新しい時代の長兄」になろうと絶えず挑戦したが、旧習は根深かった。挑戦はいつも挫折したのだった。
»2003年9月30日、青瓦台国務会議の途中、盧武鉉前大統領がコーヒーを飲みながらパク・ホグン科学技術部長官(一番左側/当時)から科学衛星の交信成功に関する報告を受けている。盧前大統領は国務会議中に、長官たちと共に自分で淹れたお茶を飲むなど、権威主義をなくそうと努力した。写真/青瓦台写真記者団
族閥言論*、「左派」と色づけ攻撃
盧武鉉前大統領は、既得権を放棄することで政治改革を試みた。与党だった“開かれたウリ党”との関係が代表的だ。公薦権や党役員の任命権によって党に全権を振るう「総裁」だった歴代大統領とは違い、彼は単なる平党員だった。党政分離を実行したのだ。しかしその代価はずいぶんと大きかった。党内に確固とした支持基盤はなかった。2006年の地方選挙惨敗に続き、ハンナラ党との大連立の提案、不動産価格の暴騰などで民心離反が加速化し、ついには脱党まで要求された。「拙速な党政分離のせいで、国政運営がダメになった」という批判も受けた。これについてイ・ジュンハン仁川大教授(政治外交学)は「与党が青瓦台の挙手ロボットになることを防ぎ、国会の独立性を保障する党政分離は、どの歴代大統領も試みさえできなかったこと」だと評価しながらも、「問題は党と政府がコミュニケーションまで断絶してしまったため、両方とも孤立してしまい、最悪の状況になった」と指摘した。
「国家保安法
**は韓国の恥ずべき歴史の一部分であり、独裁時代の古い遺物だ。国民主権・人権尊重の時代にするには、その古い遺物を廃棄すべきなのではないか。鞘に収めて博物館に入れるべきなのではないか」2004年9月5日、文化放送の対談で盧前大統領がした発言は、旧時代の清算という目標意識を克明に示した。保安法廃止は、ハンナラ党や右派陣営のとてつもない反発に突き当たった。朴槿恵ハンナラ党代表(当時)は「大韓民国の法秩序が野蛮の時代なのか。自由民主主義と市場経済を守る最後の安全装置である国家保安法を廃止することは、私のすべてをかけて阻止する」と話した。ハンナラ党は予算案処理のための臨時国会も拒否した。右派団体は路上にあふれ出た。結局、国家保安法を廃止するどころか、一文字も変えることができなかった。
族閥言論との闘いは、ほとんど「無謀な挑戦」だった。2001年8月1日、水原市で開かれた民主党国政大会で彼は「不正特権新聞である『朝鮮日報』をそのままにしておいては、この地の本当の改革はない。党員と指導部が固く団結して党運と国運をかけて闘えば、李会昌(イ・フェチャン)ハンナラ党総裁と『朝鮮日報』は共に没落する」と発言した。その言葉どおり、大統領になった後に彼は「国運」をかけて族閥言論と闘った。国政演説で「族閥言論の横暴」「迫害」など刺激的な表現を使って、これらを批判した。これらの取材には応じないこともあった。新聞市場の独寡占を規制する新聞法も制定した。誤報には一々、訂正反論報道を申請するように公務員に督励した。族閥言論は盧前大統領に「左派政権」という色付けをし、攻撃的に対応した。不動産政策も左派政策、教育政策も左派政策だとした。2004年3月、盧前大統領の弾劾が可決されると、『朝鮮日報』は「大統領職に復帰したとしても、我々にとっては深刻な問題にならざるをえない」と書いた。『東亜日報』は2006年6月、「(任期が)残りの1年半、我々だけでも実用的グローバル化で生き残らなければならない。日帝36年も耐えた我々だ」と書いた。憎悪だった。不幸なことに、世論を左右する力は彼ではなく、これらの言論にあった。
脱権威も盧武鉉前大統領が重要視した課題だった。2003年3月11日、参与政府(盧武鉉政府)の2回目の国務会議が開かれた。会議は3時間近く続いた。しかし、参加者たちはそれほど疲れてはいなかった。会議の途中、大統領が提案した休憩時間のおかげだった。大統領と長官たちは、会議場外の通路にセットされたテーブルの周りでコーヒーを飲んだ。盧前大統領も、長官たちも全員が自分で淹れたものだった。硬直した雰囲気で進められていた国務会議では、休憩も、コーヒーも想像しがたいことだった。軽いジョークも交わされた。この日の会議が終わった後、国務委員は「あんな席も初めてだが、大統領が自分でお茶を淹れて飲むのを見て新鮮な印象を受けた。大統領に近づきやすくなった」と話した。
地域の均衡発展も憲法裁判所に阻害され
»退任後、ボンハ村に帰った盧武鉉前大統領が2008年3月、村の雑貨屋でタバコを吸っている。ネチズンたちはこの写真を見て「ステキな盧武鉉」という意味の「ノカンジ」という別名をつけた。写真/聯合ニュース=チェ・ビョンギル
盧前大統領自らが権威主義の鎧を投げ捨てた例は、これだけではない。大統領別邸である青南台を国民に開放した。総理が主宰していた国務会議から青瓦台主席秘書官会議、主席補佐官会議まで直接主宰した。会議には長官だけでなく、関連実務者まで出席し、自分の意見を自由に話した。聞きたい意見があれば、行政官に直接電話をかけたり、向かい合ってタバコを吸ったりした
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はばかりのない表現も、同じ脈絡だった。「大統領の言語と庶民の言語が別個ではありえない。盧大統領は日常と公式言語の一致が権威主義を打破し、庶民大統領を志向する哲学と一致すると考えている」という当時の青瓦台参謀の言葉は、振り返るに値する。肩に力を入れるのではなく、国民と誠実なコミュニケーションをしてこそ本当の権威を認めてもらえるというのが彼の考えだということだ。右派や族閥言論は、今回は「軽薄で品位がない」という評価を下した。
地域主義の解消も、盧武鉉前大統領の宿願だった。1990年、三党合党
****で「異議があります」と手を上げた瞬間、彼は地域主義解消の象徴になった。党内になんら基盤のない「嶺南出身の湖南党大統領候補」の当選は、多くの人々に地域主義解消の可能性の夢を見させた。ハンナラ党に大連立を提案したことも、地域主義に対する苦悩のためだった。しかし、彼が行った人事では、「嶺南覇権主義」のみ強化させたという批判を受けもした。
地域均衡発展も彼の挑戦課題だった。しかし、その戦略で打ち出した行政首都圏説は、推進初期から容易ではなかった。2004年1月に交付された「新行政首都建設のための特別措置法」に対して、その年の9月に憲法裁判所は「ソウルが首都だということは慣習憲法」という奇想天外な論拠で違憲決定を下した。「首都移転は戦車を動員してでも阻止する」という当時の李明博ソウル市長をはじめ、首都圏の民心も悪化していった。規模を小さくした行政重心複合都市に変えて再び推進するしかなかったが、民心は首都圏と忠清圏に割れるだけ割れた後だった。
盧前大統領が夢見た政治改革の到着地点は、制度で運営される民主主義だった。盧前大統領が大統領記録物法をつくるまでに記録に執着したのも、そんな意志からだった。彼は夜に青瓦台官邸で私的に誰かと会ったとしても、次の日に記録管理秘書官に会った人と交わされた会話の要旨を伝えたそうだ。このため、盧前大統領が残した指定記録物は37万件以上になった。先の大統領たちが青瓦台を去る際に、指定記録物をほとんど残さなかったのとは大違いだ。しかし、やはり「先輩」たちが正しかったのだろうか。李明博政権は、就任6ヶ月目に裁判所を動員して指定記録物の公開に着手した。指定記録物は容易に公開された場合、現職の大統領が後任を意識して主要記録をちゃんと残さなかったり、後任が前大統領を相手に政治報復をする可能性があるため、非公開という装置を備えた制度だ。李明博政府はこれに加えて「記録物流出」騒動まで起こした。イ・ジュンハン教授は「自分の足首を捕まれるという覚悟をしてまで責任政治をする基盤をつくったのに、本質とは無関係ないざこざになってしまい、残念だ」と語った。
盧前大統領は、なぜ絶えず挑戦し、何度も挫折を繰り返さなければならなかったのか?ハン・クィヨン韓国社会世論研究所主席専門委員は「旧習を終わらせようとする情熱は強かったが、“その次”を出せずにいた。旧時代の慣習と地域主義の打破、党政関係の変化など、重要な課題をなげかけたが、それからどうするのか準備された内容を示すことができず、自らの立場を悪くした」と分析した。戦時作戦統制権の還収、地域均衡発展、行政首都移転などの問題が容易に「理念問題」に飛び火したのも、利害関係が衝突したり、意見がするどく対立しかねない事案を「当為」としてゴリ押ししようとしたためだということだ。
最期の瞬間、旧時代の末っ子になろうとしたのか
大統領職から離れた彼は、故郷のボンハ村へ帰り、「市民」になろうとした。「ジョンパン」(雑貨屋の慶尚道の方言)に座ってタバコを吸ったり、自転車に取り付けた車に孫を乗せて村を回ったりもした。ボンハ村の住民とカモ農法を利用して「環境にやさしいボンハのカモ米」を収穫した。「自由に話し、深みのある会話が交わされる市民空間をつくろう」と開設したウェブサイト『民主主義2.0』では、「盧公移山」(愚直な人が目的を達成するという意味の「愚公移山」に「盧」を合わせた言葉)というハンドルネームで米韓自由貿易協定などをめぐって討論をした。権威主義を投げ捨てて、参与と討論によって民主主義の発展に力を添えるための努力だった。初めて見るタイプの元大統領の姿に、ボンハ村は観光客でにぎわい、ネチズンたちは「ノカンジ」(ステキな盧武鉉という意味の合成語)という愛情のこもった呼び名をつけて熱狂した。
検察が息の根を止めようとやってくると、彼は「私はすでに民主主義、進歩、正義、このような言葉を語る資格を失ってしまいました。みなさんは私を見捨てなければなりません」と書いた。そして2009年5月23日、自らをこの世から捨て去った。「多くの人々が指導者は清廉であれと言い、(指導者に)決断力を求めるが、50年、100年後に見ると、多くが傷ついたにもかかわらず、歴史と同じ方向に行くのか、それとも反対方向に行くのかということが問題になる。その時代を生きている人を正しい方向に率いていくのが重要だ」(2002年9月26日、民主党大統領候補時代)最期の瞬間、「盧公」はもしかすると「旧時代の末っ子」になることを望み、この言葉を蘇らせたのではなかったのか。
チョ・ヘジョン記者
* 朝中東(朝鮮・中央・東亜日報)などの大手新聞を中心とした保守系メディアのこと。
** 反国家活動を規制し、国家の安全保障のために制定された法律(前文改定1980. 12. 31、法律第3318号)
*** 韓国では目上の前でタバコを吸うことはタブー。逆に言えば、向かい合ってタバコを吸うのは、うちとけた関係。
**** 1990年1月22日に民正(盧泰愚)・民主(金泳三)・共和(金鍾泌)の三党が合同宣言をした。