ナショナリズムの両面性/高橋哲哉
2カ月前にこのコラム(11月18日付「
フリーター世代の戦争待望論」)で、両極化する日本で非正規雇用労働者として貧困と排除に苦しんでいる若年層の間で、赤木智弘という若者の「戦争が希望」という議論が、一定の共感を得ていると紹介した。
アメリカ発の金融危機と世界同時不況の余波に韓国も日本も巻き込まれている。日本では大企業が相次いで人員縮小方針を明らかにしている。今年の春までに非正規労働者3万人を解雇するという予測も出ている。「ワーキングプアー」(働く貧困層)の苦境は、非正規労働の職すらない失業者の急増関係に悪化する兆しを見せている。
最近、若者たちが同世代の労働や生活支援を目的に設立した非営利法人主催の討論会が開かれた。主題は「ナショナリズムが答えなのか-承認と暴力の政治学」。萱野稔人・津田塾女子大教授と筆者が討論者として参加した。萱野氏は国家の存在を曖昧にしてきたポストモダン思想を批判し、国家の本質を「暴力の運動」として浮上させた著書『国家とはなにか』で注目されている政治哲学者だ。討論の初っ端から、彼は日本の批判的言論は従来のナショナリズム批判が基調だったが、格差や貧困問題についてはナショナリズムの肯定的口実を認めなければならないのではないかと話題を投げかけてきた。
私もやはり歴史的脈絡を除外したまま「すべてのナショナリズムは悪」だと主張する批判には一定の距離を置いてきた。フランス革命で成立した近代ナショナリズムは、身分制社会を解除し、自由と平等を掲げた。帝国主義と植民支配に対抗するナショナリズムは、差別と隷属から民族の解放を志向した。歴史的にナショナリズムが解放的意味を持つ局面があるということを否定することはできない。しかし、そのようなナショナリズムも内部で少数民族や女性などのマイノリティに対する差別、排他主義に変わる限り、批判を避けることはできない。
萱野氏の主張は具体的だ。「赤木智弘のような戦争待望論や、貧困のせいで社会的認定を求めて右翼運動にひた走る若年層の存在を見ると、“日本人の一人であること”に拠り所を求めるナショナリズムの効用を認めざるを得ないのではないか。非正規労働の現場で、中国や東南アジアなどの外国人と職を奪い合わなければならない日本の若者が排外主義に突き進むことを抑制するためにも、“開かれた国”という名分を捨てて国境をある程度閉じた方がいいのではないか。国内の格差問題を解決するためには日本の国民経済を固守し、国民間の平等を実現しなければならないため、ナショナリズムを排除しては考えられないのではないか」などなど。
要するに、格差と貧困によって苦しんでいる人が右傾化や戦争に救いを求める道を抑制するためには、ナショナリズムによる国民間平等を志向することが優先されなければならないのではないかという主張だ。「国民」という概念や法的規定を絶対悪として排斥することは現実的ではないという主張には私も同意することができる。
しかし、萱野氏のようなナショナリズムを極右と区別しようとしても、現実的に日本社会で民族主義者になった人々が右翼的ナショナリズムとの距離をどこまで守れるのかは甚だ疑問だ。赤木は「右翼思想では国家や民族、性別、出生など普遍の固有“表示”によって社会の中で人が位置づけされる。…たとえば自分なら“31歳の日本人男性”として在日朝鮮人や女性、若い人たちよりも尊敬される立場に立つことができる」と主張した。
このような回路をたどれば、「国民」のナショナリズムが実際に存在する差別を肯定し、強化することになってしまうという憂慮は、決して小さいものではない。
高橋哲哉/東京大教授・哲学
『ハンギョレ』 2009年01月07日