[済州4・3事件60周年]
大阪の証言「虐殺の島で生き残った」
武装隊の総司令官、李徳九(イ・ドック)の姪など、初めて4・3事件の証言に立った大阪の‘済州人’たち
▣大阪=パク・スジン記者
▣角南圭祐記者(フリージャーナリスト)
「これで5回目だ。今回も行けなければ、いつ死ぬかもわからない」10月だったが、風が冷たかった。夜8時、釜山港。巨大な貨物船何隻かが幽霊船のように漂っていた。今回は無事に海を渡ることができるのか。毎回、行くたびに風雨が強く、戻ってきたのももう4回目だ。20分くらい待つと、1艘の小さな漁船から人影が現れた。ギシギシと船室のドアが開いた。船長は船室で寝ていたようだった。しばらくすると、船に乗ろうとする人々が一人二人と現れはじめた。「まさか、あの中に警察はいないだろう」人々をゆっくりと眺めながらイさんも風呂敷包みを手にした。「今回は必ず海を渡ろう。生き残るために」
△3月23日、大阪生野区で済州4・3抗戦当時、武装隊の総司令官だった李徳九(イ・ドック)の姪イ・ボクスさん(中央)が涙を流しながら60年前のことを話した。(写真/角南圭祐)
この国にはもう未練はなかった。8年前、警察署に連行された7歳*の従弟と小学校に通っていた従兄が両方とも銃殺された。7つの子供を殺すにも警察は容赦なかった。観徳亭(済州島にある亭閣)にさらされた‘山男’**ドック叔父の生首も頭の中をかけめぐり続けた。父方の叔母と母方の叔母は、2歳の子供を背負ったままの姿で穴に埋められた。人々は狂っていた。一家22人がすべて穴に埋められたり、銃殺された。その後、イさんは一度たりとも同じ場所で寝ることができなかった。今日はこの家、明日はあの家とさ迷った。
一家22人を失った後、命をかけた密航
立ち去っても心配は尽きなかった。拠り所のない孤独な身。「日本に行ったら誰とどう暮らしていかなければならないのか」50万ウォンを漁船の船長に渡し、船室に場所を確保した。今回が5回目だが、それまで土地をことごとく売り払って作った250万ウォンをそっくりそのまま密航に使ったようなものだった。「むしろ北に行きたい。思想も何もわからないが、それでも北ではアカ、いやアカの姪と言って銃殺したりはしないだろう」15時間くらいが経って、日本の海域に入った。しかし、陽が明るいうちは港に入ることができないため、付近をぐるぐると回っていた。イさんを含む密航者20人余りを乗せた漁船は、日が傾く午後6時頃に港に向かった。真夜中にその漁船は九州の唐津港に到着した。しかし港には密航を捕まえる日本の警察が立っていた。「どこから来た?」「登録証はあるのか?」警察が尋ねた。イさんは何も言えず、肩をがっくりと落としたまま警察に連れて行かれた。
1956年10月、韓国を去った日の晩について日本語で話しながらイ・ボクス(72)さんは涙を流した。今年の3月23日午後3時、大阪生野区にある聖公会教会の1階の講堂に準備された証言会の席でのことだ。手帳を手に熱心に書き取る学生、涙を拭いながら写真を撮る新聞記者、「私もそうだった」という表情で何度もうなずく老人など、集まった60人余りの人々は息を殺した。
イさんは1948~49年の済州4・3抗戦を主導した武装隊の総司令官、イ・ドックの姪だ。家族が全員銃殺され、済州島を去り、日本に密航し、大村収容所に収監され、どうにか済州4・3抗戦に関する記事を書いた日本人記者の助けで収容所から出ることができた。生きることがつらいとかなづちで手を叩き付け・・・。話を始めて1分も経っていなかったが、何かがこみ上げてくるような表情で涙を流したイさんは、2時間くらいに渡る証言の間涙を流し続けた。手にしていたハンカチがぐっしょりと濡れた。
イさんがこのように多くの人々の前で口を開いたのは、日本生活52年で初めてのことだ。オ・グァンヒョン在日本遺族会事務局長が10年間説得し続けた結果だ。これまでは誰が捕まえに来るかと怯え、「済州島出身」ということも、叔父がイ・ドックだということも出来る限り言わないようにしていた。4人の子供たちも全員日本の学校に通わせた。子供たちが政治や思想に多少でも関連する話をすることを嫌った。それは「考えただけでも身の毛がよだつ」ことだった。
寝床でも4・3の話をしない夫婦
これまでの60年間、沈黙を守ってきたのはイさんだけではない。大阪に住んでいる済州出身の在日たちは大概そうだ。大阪市生野区には1948年以降、人々が殺し合い、殺された‘虐殺の島’済州から追われるようにしてやってきた在日韓国人3万人余りが住んでいる(大阪市役所、2007.12)。1933年、済州~大阪定期航路が開航し、済州から日本へ渡った者たちの多くが大阪に定着した。その後、4・3抗戦を前後して済州の人々は‘血の臭い’を避け、正規航路の代わりに密航船へ身をゆだねて大阪へ来た。
△大阪生野区のコリアン・タウン。済州出身の在日が多く集まるここでは、あちこちでハングルの看板や済州島の置物を見ることができる。(写真/角南圭祐)
1948年、イ・トグク総司令官の勧めで武装隊生活をしていたコ・ラニ(78)さんは髪の毛の中に秘密文書を隠し、運搬する任務をまかされていた。当時、18歳だった。警察の取締りが厳しくなり、コさんの父親は娘の身に危険が及ぶことを恐れてコさんを日本へ行く密航船に乗せた。済州のある海岸から10人余りの人々と共にコさんが乗った船は、兵庫県の西宮に向かった。密航船は出発地も到着地もそれぞれ違った。昼は名もない岩陰に隠れ、夜にのみ移動した。3日かけて西宮に到着した。大阪と神戸の中間にある街だ。コさんは同じ村の人たちが多く住んでいる大阪市生野区へ向かった。彼女を待っていたのは悲報だった。「私が密航船に乗った後、父がすぐに銃殺されたそうです」コさんはその後、口をつぐんだ。苗字が高(コ)氏***なので、人々は彼女が済州から来たんだろうと言ったが、30年以上、故郷について何も語らずに暮らした。
コさんの夫も済州が故郷だ。4・3抗戦の頃、密航船に乗って日本へ来た。コさん夫妻は一度も寝床でさえも4・3に関する話をしなかった。10年くらい前にある研究者がコさんを訪ねて4・3に関するインタビューを要請した。夫がいきなり現れ、その研究者を追い出した。そしてコさんに叫んだ。「お前も死んで、俺も死ぬ」
23日、証言会の主人公であるイ・ボクスさんも夫に隠れて証言会に参加した。「私の夫は私と思想が違うので、こちら側をまったく理解してくれません」証言会以降、インタビューの時間をつくるのも夫のせいで難しくなった。証言会の翌日、イさんが経営するカフェに行った。イさんは30年前から生野区で‘エデン’というコーヒー専門店を経営している。エデンでは済州から来た在日たちが主に立ち寄り、安いコーヒーとトーストを注文する。夫がいない朝の6時半にエデンを訪れたが、イさんは取材陣を見るや手で口を覆った。「しっ、静かにしてください」イさんが目で訴えた。隅のテーブルにイさんの夫が座って新聞を読んでいた。証言会に出たときも「娘の家に行ってくる」と言って少しばかりの時間を作ったのだ。結局、カフェの隅で新聞を読んでいた夫をうかがい見ながら取材陣もコーヒーとトーストを食べるしかなかった。夫はドアを見つめ続けた。そして見慣れぬ顔の取材陣を横目で観察した。何かを恐れるような視線でもあった。
「分断・国家保安法-まだ何も言えない」
大阪市生野区で食堂を経営する済州出身の在日1世、キム・ジョンセン(78・仮名)さんは「4・3については何も言いたくない。まだ分断状態だ。今も国家保安法がある。ここの人たちは、まだ4・3について誰も話そうとはしない」と言って取材陣を追い払った。1947年、17歳で警察に捕まり、済州警察署で留置場生活を1カ月送った彼は、かつての経歴が暴露されるのではないかと気をもんだ。「マスコミのインタビューは何度かしたが、そんな話は絶対にしなかった。これからも絶対にしないだろう」キムさんは取材陣の後姿に向かってこう叫んだ。日本で4・3関連の記念行事を主導し、4・3が在日共同体に及ぼした影響について研究してきた文京洙(ムン・ギョンス)立命館大学教授(国際関係学)は「4・3を直接経験した彼らは、‘4・3コンプレックス’とも呼べるほどの巨大な挫折感や心理的な屈折を抱いている」と語った。
4・3抗戦を避けて日本へ来た彼らは、誰もががむしゃらに金を稼いだ。「希望がなかったんです。お金を稼ぐ以外に慰めがなかったんです」生野区で開いた食堂がうまくいき、3店舗にまで増やしたホン・ヨピョ(78)さんは日本で生まれた。祖国が解放されるとすぐ済州に渡った。済州に行く前までの日本での生活は貧しかった。父は大阪城がある森之宮の軍需工場で石を運んだ。当時、中学生だったホンさんも一緒に石を運んだ。学校は夢のまた夢だった。父は稼いだ日銭を賭博や酒代にすべて使った。母は工事現場の近くで米ぬかから作ったドブロクを売った。3畳の部屋で母、父、弟妹にホンさんの5人家族がお互いの体温で温め合いながら冬を過ごした。そうして解放を向かえたホンさんの家族は、父を除く全員が済州に戻った。しかし済州での暮らしは大阪よりもひどかった。他家の田畑を耕して暮らした。半作農と言った。収穫の半分を地主が、半分は小作農が受け取った。数年後、島が騒々しくなったとき、ホンさんは友人たちに連れられてデモに参加した。若い男が‘山男’たちに少しでも近づこうとすると、軍人や警察が銃口を向けてくるような時代だった。4・3のとき、「お前だけでも生きてくれ」と母がなけなしの金を集めてホンさんを密航船に乗せた。そうやって戻った日本でホンさんは、父がなぜあのように酒や博打に溺れたのかが分かるような気がした。しかしホンさんは酒に溺れないように努め、酒を飲む時間帯には手当たりしだいに働いた。現在、大阪市生野区の中間商人会顧問を務めている彼は「在日同胞たちが金を稼げる方法は多くない。主に食堂をやったり不動産をし、個人ローンをやったりもした。時には‘悪徳’だと侮辱されながらも、歯を食いしばって金をためる人が多い」と語った。
△大阪布施地域にある在日のおばあさんのための介護施設、‘サランバン’。釜山が故郷のあるおばあさんは、ここで4・3に関する話を聞き、済州出身のおばあさんと付き合いながら‘4・3’はアカというイメージがなくなった。(写真/角南圭祐)
50周年は大阪領事館が行事を妨害
イ・ドックの甥のカン・シルさんも「信じられるのはお金だけだから、稼げるだけ稼いで使わなかった」と話した。カン・シルさんは地域では有名な資産家だ。人々は彼が不動産で成功したと話した。「どうやって資産を増やしたのか」という質問に彼は答えなかった。代わりに彼は「済州を離れて釜山に行ったとき‘済州のクソ豚’と馬鹿にされた。再び日本に渡ってからは‘チョーセンジン’と差別された。私には失うものも、惜しむものも、恐れるものもない人間」だと語った。
2000年に制定された‘済州4・3事件真相究明および犠牲者の名誉回復に関する特別法’は、7年が過ぎた今でも在日社会には馴染んでいない法律だ。広報もされていない。在外公館でも4・3犠牲者の遺族申請を受けているが、日本での申請者は78人にとどまっている。韓国内では1万3000人を超えている。「依然として自分が済州出身であることを明かしたがらない人は多くいます」オ・グァンヒョン大阪4・3遺族会事務局長が話した。韓国内では多くの研究と共に4・3に対する再評価作業が行われ、国民的な認識が変わっているが、大阪では4・3に対する歴史認識が未だにほとんど変わっていなかった。朝鮮総連や民団も4・3に関して明確な意見を出していない。このような雰囲気の中で済州出身の人々は「済州人ではないふり」をして生きてきた。
オ・グァンヒョン事務局長は、韓国政府の煮え切らない態度も問題だと言った。在外公館である大阪領事館は、4・3の50周年行事を準備していた1997年当時、「即刻行事をやめろ」と妨害してきた。その後、金大中政府が発足し、領事館側も行事に参加したが、それ以外に取り立てて4・3遺族のために領事館が動くことはなかった。済州4・3委員会も4・3の60周年行事に在日200人余りを招待するとしたが、結局13人だけを呼んだだけだった。故郷の地に行くことで4・3の傷を癒そうとしていた多くの在日たちが失望している。オ事務局長は「政府が招待しない理由は、遺族ではないためだと聞いている。韓国政府は直系家族のみを遺族として認定している。しかし叔父をなくした人、伯母を亡くした人、すべてが遺族だ。そして遺族であろうとなかろうと、4・3を経験して生き残るために日本へ来た多くのディアスポラの傷を癒す義務が韓国政府にはある」と話した。
大統領の公式謝罪を超えて真相究明を
イ・ボクスさんが夫の目を盗んででも、51年間固く閉じていた口を開くことにしたのは、2003年10月の盧武鉉大統領による‘公式謝罪’を見た後のことだった。「テレビを見ていたら、大統領が‘申し訳ない’と言ってるんですよ。これまで済州へは二度と足を踏み入れまいと思っていたのに…。心に焼き付いていたもの、ぎゅっと押さえつけられていたものが少し、ほんの少しほぐれたような気がします。そして2世、3世たちがこんなこと(真実の究明)に駆け出しているのに、私が直接することはできないんだから、せめてこんなことぐらいはと思って」
川瀬俊治・帝塚山大学講師は、毎年東京で済州4・3を主題に公演するマダン劇(屋外演劇)を観に行く。彼は行くたびに多くの在日に会う。「いつだったか、マダン劇の真っ最中にあるおばあさんが出てきて、お辞儀をしながら涙を流しているのを見ました。そしてお金を置いて行ったんです。まるで祭事を行っているようでした。おそらく、あのおばあさんのように言葉に出せず、多くの恨(ハン)を隠したまま生きていく在日1世たちは数えられないくらい多いのでしょう」
韓国から日本へ渡った在日は、その正確な数字もまだ明らかになっていない。4・3事件が在日コミュニティーに与えた影響も研究されてはいない。その第一の理由は、人々が語らなかったためだ。今回の証言会は彼らが口火を切ったということに大きな意味がある行事だった。これからさらに多くの在日たちが口を開き、恨を癒すようにすれば、大統領の一言の謝罪を超えた、完全な真相究明と犠牲者の名誉回復の意志を政府が示さなければならないだろう。
『ハンギョレ21』2008年04月03日 第704号
*韓国では一般的に数え年が使われているので、「7歳の従弟」の満年齢は5歳か6歳と思われます。
**反抗勢力は山間部でパルチザン闘争をしていたので‘山男’といった表現が使われたようです。
***済州島は「高(コ)」、「梁(ヤン)」、「夫(ブ)」という苗字を持つ人が多いそうです。在日2世の小説家、梁石日(ヤン・ゾギル)の父親も済州島出身だったとか。