ミャンマー軍部、韓国大使館のインターネット遮断
市民は銃口を避けて“ゲリラ・デモ”
今のミャンマー(ビルマ)は世界から孤立した“島”のようなものだ。
ミャンマー軍事政権は、軍部統治に抵抗するために20年ぶりに起きた民主化デモに、無差別発砲で対抗している。軍事政権はさらにデモの行方を外部の世界に伝えてきたインターネットさえも全面遮断した。国際社会の目を無視する軍事政権の無慈悲な弾圧により、ミャンマーの国民はさらに強い孤立感と恐怖にさらされている。
30日の現地の状況に関する記事を送稿しようとホテルのビジネス・ルームで格闘したが送れなかったため、ヤンゴン(ラングーン)駐在のKOTRA(大韓貿易投資振興公社)の支社を訪れた。Eメールが作動しそうだったため、写真と共に送稿した。しかし、ソウル本社はこれを受信することができなかった。ファックス送信も遮断された。外国機関のEメールやファックスさえも、ミャンマー軍政が検閲しているという傍証だ。ヤンゴン駐在韓国大使館でも、インターネットに接続することができなかった。結局、外部と通じる唯一の通信手段である国際電話を使って、記事を読み上げなければならなかった。
治外法権が認められている外国公館のインターネットさえも切ってしまったことからも、ミャンマー軍政による情報統制の実情を知ることができる。野党指導者アウンサン・スー・チー氏の自宅に通じる道には三重、四重の鉄条網が張り巡らされていた。通りの真ん中では陣地を築き、兵士が機関銃を抱えていた。
先週末を境に反政府デモは後退している。軍政による武力弾圧のせいだ。30日にヤンゴンで集会やデモの舞台となったスレタップとシュウェダゴンタップ間のスレタップ通りや、数百メートル離れたシュウェボンタ通りは軍人たちが完全に掌握していた。日曜日のこの日も、兵士や武器を載せたトラックが大通りを疾走していた。僧侶たちを筆頭としたデモ隊でごった返していたこの通りのあちこちには、バリケードが設置されていた。デモが予想されている午後には車両の通行が禁止され、商店街は静まり返った。
29日午後、シュウェボンタ通りはまたたく間に政権退陣を要求する声が満ち溢れた。いわゆるゲリラ・デモだった。道を行きかう人々が十字路側に追いやられはじめると、いつの間にか一つになった。“退陣しろ、退陣しろ!” “平和、平和!” 拍手と叫び声が沸き起こった。乗用車の車体を叩いて歓呼する人もいれば、手振りで回りに参加するように呼びかける人もいた。20~30代が主力のデモ隊は、すぐに1000人以上にふくれあがった。一方では、赤い帯を巻いた者に従う人々が独立の英雄、アウンサン将軍の写真を掲げて国歌を歌いながら行進した。商人たちは口笛を吹いて手を振った。
友人たちと一緒にいた大学生のミムチは、「我々は現政権に反対し、(野党の)国民民主連盟(NLD)を支持」するために通りに出てきたと話した。彼は「人々が殺されているのに怖くないのか」と聞かれると、「国全体が怒っている」と答えた。
午後1時40分くらいに始まったデモは、20分も経たないうちにバラバラになりはじめた。スレタップ通り側で盾を構えた警察が道を狭めてきた。武装した軍人たちを乗せたトラックが、デモ隊に向かって突進した。数日前の流血の惨事が記憶に生々しいデモ隊の人々は、歩道に上がって逃げはじめた。再び集まって叫び声をあげる彼らに向かって、今回は別の方向から軽機関銃を構えた兵士が乗ったジープが接近してきた。デモ隊は、わずか数十メートルの射程圏内に入った。警棒を手にした警察が飛び掛らんばかりに威嚇し、後ろで自動小銃を抱えた軍人たちが睨んでいた。闘争を呼びかける声を上げることはできても、武器を持たない市民たちは銃口の前で引き下がらなければならなかった。この日、郊外で数百人が集まって行われたデモも長くは続けられなかった。27日に7万人余りが集まった大規模なデモ以降、短い休止期間に入ったのか、デモが完全に収束してしまったのかはまだ断言することができない。
» ミャンマー最大の都市、ヤンゴン市内を掌握した軍警が29日、市民3人を逮捕している。 ヤンゴン/AP・聯合
民主化デモが萎縮した様相を呈しているのは、軍事政府の“老練な”圧迫策に押されたからだと見られている。デモ隊に対する発砲と共に、今回のデモを主導した僧侶たちに対する“封鎖”が民主陣営の鋭鋒を折るのに奏功したという分析だ。
28日から規模が小さくなりはじめたデモでもっとも目につく現象は、僧侶たちがいなくなったという点だ。29日にヤンゴンの中心街で行われた奇襲デモでは、僧侶はまったく目にとまらなかった。軍事政権は26日の晩からヤンゴン市内の寺院を捜査し、デモに積極的な僧侶を中心に700人以上を連行していった。
軍事政権はエネルギー価格の暴騰が導火線になった今回の事態の初期段階である8月中旬には、すでに1988年の大学生指導部出身の“88世代”13人を拘禁し、機敏に対応した。9月に入りデモが拡散すると、野党である国民民主連盟(NLD)の幹部40人以上をはじめとした要注意人物400人余りを逮捕したと伝えられた。検束を逃れた野党勢力の人々は、“地下”に潜った。このような状況下で、若い僧侶たちの組織力は決定的な動力になってきた。今回のデモの過程を見守ってきた市民は、「当初、お坊さんたちは自分たちだけでするので市民にはデモに参加しないように言っていた」、「『お坊さんたちがあのようにしているのを見ると、涙が出る』という人々が合流し、デモの規模が大きくなった」と語った。
» ミャンマー・ヤンゴン市スレタップ付近のシュウェボンタ通りで29日午後、市民たちが野党指導者アウンサン・スー・チーの父親であり、独立運動指導者であるアウンサン将軍の写真を掲げてデモを行っている。この写真は現地のインターネットやファックスなどのデータ通信が不通となったため、ミャンマー政府の統制が及ばない第三国の衛星を利用した衛星電話で送られた。ヤンゴン/イ・ジョンヨン記者
現地のある消息筋は、「拡散していたデモの気勢が衰え、散発的な形になったところに要注意人物を片っ端から拘束したことが効果を見せているようだ」と伝えた。軍部の執権長期化により、監視や統制技法が発展したことも、このような対応を効率的にした。軍事政権は外部との主要なアクセス手段であるインターネットを遮断し、世界の関心から国を孤立させている。軍事政権はかつて国際電話を切るという極端な方法を使ったこともある。
日が長いヤンゴン市内では、夜の7時になっても明るいが、人影を見かけることはほとんどない。9時からは通行禁止のため、バスが通らないからだ。デモ隊の主要攻略対象である巨大な仏塔など、要所要所に配置された軍人や制・私服警察の視線はさらに鋭くなった。こうしてヤンゴンは再び“幽霊都市”に変わる準備を終えた。
ヤンゴン/イ・ボニョン記者
(ハンギョレ 2007年9月30日)
Stand with the Burmese Protesters
(10月3日現在、47万人以上の方が署名しています)