[靖国キャンペーン]「銃殺された仲間を自分の手で埋めた」
沖縄へ連れて行かれた強制徴用者だったカン・インチャン氏
もう戻っては来ない1200人の恨(ハン)を慰める
▣ 読谷(沖縄)=文/ギル・ユニョン記者
▣ 写真/角南圭祐記者(フリーランス)
カン・インチャン(86)氏の沖縄訪問は、今回が8回目だ。1944年の夏、彼の最初の沖縄行きは突如始まった。「陰暦の5月17日(陽暦7月8日)だっただろうか?」老人は顔を曇らせて話を始めた。家族と麦の取入れをしていたときだった。日本人の警務主任と村役場の朝鮮人職員が、彼の腕をつかんで英陽(ヨンヤン)警察署に連行した。警察はカン氏に「大邱で飛行場建設の仕事があるが、長くても3カ月、短ければ2カ月で終わる」と話した。その日の夜は郡庁に泊まり、翌日9時30分に他の人々と木炭車8台に分乗して安東(アンドン)へ、安東からは汽車で大邱へ移動した。その途中で逃走する者もいた。
△ 「恨の碑」1周年記念式に参列し、献花をするカン・インチャン氏。彼は「まだ恨がすべて癒えたわけではない」と話した。
大邱へ行くと騙されて日本へ
騙されたことに気付いたのは大邱でのことだった。大邱で軍服が支給され、それを着た。冬の軍服だった。小隊長の名前はハセガワで、部隊名は“球8885”だった。1週間、敬礼、整列歩行、防空壕待避要領などの軍事訓練を受けた後、7月25日の午後5時30分に貨物列車に乗って釜山へ行った。殴られるのが恐ろしくてどこへ行くのか聞くこともできなかった。
釜山で乗せられた船が向かった場所は、下関だった。再び5日間の訓練を受けた。7月31日、船に乗せられ鹿児島へ移動した。鹿児島の手前で暗礁に乗り上げたのか、潜水艦の魚雷攻撃を受けたのか、船が大きく揺らいだ。
沖縄に上陸したのは8月12日だった。カン氏のように慶尚北道の北部地域から沖縄へ連れて行かれた朝鮮人強制徴用者は、3000人に達した。1日休み、波止場から荷物を運んだ。1500人ずつ2組に分かれて半数は午前中に、半数は午後に爆弾・弾丸・軍用米などを運んだ。沖縄本島の南側にある与那原で働き、翌年2月に沖縄本島の付属島嶼の一つである慶良間諸島の阿嘉島へ移動した。
島での訓練は単純だった。船に「海のカミカゼ」と呼ばれる特攻艇を2台載せ、洞窟の中に隠したり海に浮かべたりする訓練を繰り返した。特攻艇とは、爆弾を設置した魚雷型の小さな潜水艦に乗り、敵の艦艇に本体をぶつけて自爆する船のことだ。日本軍は1カ月に家へ100ウォン、小遣いとして30ウォンを与えると言ったが、守られはしなかった。
阿嘉島に対する米軍の艦砲射撃は1945年3月14日から2日間続いた。日本軍は山へ逃げた。3月26日、米軍が上陸した。訓練していた特攻艇は、まったく使用されることもなかった。食糧が尽き、朝鮮人軍属たちは沖縄住民のサツマイモを盗んで食べた。13人が捕まった。1945年4月19日、午後8時に3人の日本軍がサツマイモを盗んだ朝鮮人13人を縛り上げたが、そのうちの1人が逃げた。カン氏は「私を含めて3人が彼らを埋葬するためについていった」と話した。12人が銃で撃たれて倒れた。穴は空腹のために掘ることができなかった。まだ息が途絶えていない仲間はいないかと調べながら土をかけた。この事件はカン氏の一生の恨として残った。
その後、カン氏は米軍に投降して捕虜になり、その翌年、故国に戻った。共に連行された3000人のうち、1200人が戻ってこなかった。日本軍の軍属として死んだ彼らは、おそらく靖国神社に合祀されているとのことだ。
遺骨を見つけられなかった代わりに慰霊碑を建立
2回目の訪問は、それから53年後に実現した。1997年7月だった。“平和と民主主義めざす全国交歓会”の行事に招請されたカン氏は「あのとき死んだ仲間の遺骨を故国に持って帰りたい」と語った。その年の12月に遺骨調査が始まったが、骨は見つからなかった。日本人側は代わりに慰霊碑を建てることにし、名前を“太平洋戦争、沖縄戦被徴用者の恨の碑”と定めた。5カ月の間に700人が700万円を集めた。そのお金で1999年8月12日に慶尚北道の英陽郡で“恨の碑”を除幕し、2006年5月13日に同じ碑を沖縄の読谷村に建てた。碑石の中では、目隠しされた朝鮮人徴用者の首を日本軍が銃の台尻で殴りつけており、この光景を見た朝鮮人の母親が息子の膝につかまって泣き叫んでいる。6月22日、“恨の碑”1周年開幕式に参列したカン・インチャン氏は「ありがとう」と言った。
(ハンギョレ21/2007年07月05日 第667号)