先日の「日の丸・君が代
強制違憲判決」について理解できない方が多いようです。この判決を支持する立場で書かれたブログに見当違いなコメントを書いていらっしゃる方をよく見かけます。別に東京地裁は「日の丸・君が代が違憲」と言ったわけではなく、「日の丸・君が代を
強制することは違憲」という判決を下したにもかかわらず、ですよ。
で、そのへんの違いを高橋哲哉教授がわかりやすく解説しているので、翻訳してみました。(よく考えたらこの文章は元々日本語で書かれているんでしょうけど、それが韓国語に訳されていて、さらにそれをまた日本語に訳しているんですなぁ。なんと手間なことをしているんでしょうか、私は。)9月25日のハンギョレ新聞に掲載されていたものです。それではどうぞ。
“日本帝国”の影を脱する/高橋哲哉
今月21日、東京地裁で日の丸(国旗)と君が代(国歌)に関する重要な判決が下された。日の丸・君が代は靖国、歴史認識と同じように“大日本帝国”の影がまとわりついた問題であると同時に、今日の日本社会の大きな論争の的でもある。過去の“帝国の象徴”である日の丸・君が代は、戦後の平和憲法や教育基本法体制下でも学校行事に早くから使われ始めた。そしてこれを定着させようという文部省・教育委員会などの行政側と、戦争・植民地支配に使われた歴史のために拒否する教師・生徒との間で対立が続いてきた。
1980年代、東京都では自由な雰囲気の卒業式・入学式が一般的だった。しかし90年代末から様相が大きく変わった。国家主義者、石原慎太郎東京都知事の登場、国旗・国歌法制定などを経て、2003年10月23日、東京都教育委はある通達を発表した。職務命令により教職員に日の丸に向かって君が代を歌うようにさせ、従わない教職員は懲戒すると明らかにした。処分を覚悟して起立を拒否し、懲戒を受けた教職員が400人余りにものぼった。
強制に反対する教職員は都教育委の通達・職務命令に従う義務がないという確認を求める訴訟を起こした。これに対して東京地裁は原告の主張をほぼ全面的に認める判決を下したのだ。「敗訴は1%も予想しなかった」という都教育委の職員がいるかと思えば、「夢のような判決で信じられない」と喜ぶ教師もいる。両方とも大きな驚きを隠すことができなかった。逆に見れば、今の日本ではその程度の教育の自由も尊重されておらず、上意下達が当然のことになってしまったということではないのか。
現場の裁量をまったく許容しない通達や命令で起立・斉唱を強要することは憲法19条で保障された思想・良心の自由の侵害であり、教育基本法で禁止した「不当な支配」に該当するという判断が判決の中心だ。判決はまた、日の丸・君が代が「皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱」だった点を言及し、今も「価値中立的に認められない」と指摘した。少数者の思想・良心の自由を守るという主旨からも教育委の通達・指導を行き過ぎだと認めた。これもやはり民主主義や立憲主義の原則にとても忠実な観点だ。
判決が日の丸・君が代の式典自体を否定したわけではない。「国旗・国歌に対する正しい認識を持たせ、尊重する態度を養うことが重要」であり、卒業式・入学式などでそのような式典を行うことは「意味がある」とした。また、思想・良心の自由も他人の権利を侵害する場合には制約を受け、式典を積極的に妨害したり起立・斉唱拒否を煽ることは認められないとした。東京の学校で行われていることは異常な“強制”“過度”“逸脱”であるために認めることができないと判断したものだ。
日本は依然として憲法や教育基本法の主旨に照らして“常識的な”判決が、“夢のよう”だと考えられたり、“異例な”“画期的”“歴史的”だと評価される社会だ。さらに、今その憲法や教育基本法の改定を公約に掲げた政権が誕生した。
今は起立・斉唱の強制を違法だと断定する判決が可能だ。国民の自由と権利に対する制約を強化する改憲案や、教育の主体を国民から政府・行政に移そうという教育基本法改正案が通過すれば、そのような可能性自体がなくなってしまうだろう。民主主義の夢がこれよりもさらに遠のいてもいいのだろうか。
しかし、少数派とはいえ日の丸・君が代の強制に対して処分を覚悟して抗議する人々がまだ日本には存在する。そしてその人々を支援する運動も存在し、このような判決が下された。まだ希望はある。
高橋哲哉/東京大学教授・哲学